小説『鬼平犯科帳』長谷川平蔵の妻・久江の実家『大橋与惣兵衛親英の屋敷』を散歩
久栄の父は、大橋与惣兵衛親英(おおはしよそべえちかふさ)といい、実在の人物です。
注釈:小説上では「ちかふさ」→「ちかひで」と記されている。
大橋与惣兵衛親英は、二百俵取りの旗本で、幕府の御船手頭(おふなてかしら)でした。
大橋与惣兵衛の父は、黒田左太郎忠恒(くろださたろうただつね)、母は大橋与惣右衛門親宗(おおはしよそえもんちかむね)の娘でした。
親宗も親英も同族で、本家(二千百二十石でしたが絶家)は肥後山本郡大橋(現在の熊本県)の出で、家康以来の幕臣でした。
大橋家は、桓武平氏の流れで、平貞能(たいらのさだよし)が、肥後国山本郡大橋に下向して土着し、大橋を名乗るようになったのが始まりとされている、宗良親王(むねよししんのう:後醍醐天皇の皇子)の末裔と称する一族です。
久栄の父、親英の実家である黒田家は、近江伊香郡黒田村(現在の滋賀県)の出で、本家は黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか:筑前福岡 五十二万石)。
その数代前の黒田左衛門尉宗満(くろださえもんのじょうむねみつ)の長男・高満(たかみつ)の末裔を称しています。
黒田左太郎忠恒の三男だった、久栄の父、黒田三郎左衛門親英は母親の縁で大橋家に養子に入ったのだそうです。
大橋与惣兵衛の屋敷は、下谷和泉橋通り(現在の首都高速道路1号線のある通り)にあったそうです。
現在は御徒町付近でしょうか。
小説では、神田小川町(現神田神保町一丁目)辺りにあったとされています。
大橋与惣兵衛親英の役職、御船手頭とは、幕府の船舶管理と海上運輸を司っていたのです。
役料は七百石でした。
御船手頭の下には、船手同心、船手主水(ふなてもんど)、御召御船役といった役目の者が配されていました。
基本は船手頭一人につき、船手同心は30人、船手主水は50人でした。
船手頭の役屋敷(官舎)は霊巌島にあり、船手頭の屋敷は日本橋兜町付近にも集中していたといいます。
これらの屋敷は、当時、海賊屋敷と呼ばれていました。
御船手組の筆頭であった向井氏は、唯一世襲が許されており、元々は武田氏(甲斐武田氏)の海賊衆(武田海軍)に属していたという家柄でした。
この向井氏は、御船手組筆頭として明治維新まで続いたのだそうです。
向井氏の屋敷内には、源義家の兜塚があり、後の兜町の由来のひとつになったと伝えられています。
小説上では、大橋与惣兵衛は、高杉道場で平蔵や岸井左馬之助と共に剣術を習っていた剣友(老剣友)という描かれ方をしています。
神田小川町の屋敷に移る前は、本所で屋敷が隣り合わせであり、親交が深かったとされています。
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