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小説『鬼平犯科帳』の舞台『清水門外の役宅』と『町奉行所』を散歩

かつては湿地帯であったといわれる江戸。
徳川家康が江戸に入封する前までは、村々が点在する田舎だったようで、谷と台いう字が付く地名が多いことから、台地と谷、谷の下は湿地で、決して今のような平坦な土地ではなかったようなので、まさかここに大きな街が造られるとは誰も想像していなかったのではないかと思うのです。
豊臣秀吉の家康に対する嫌がらせチックな移封によって、むしろ家康は意地になってこれだけの大都市を築いたんですなぁ。

この大江戸の治安を守るためには、町奉行所だけでなく、場合によっては特別警察隊である火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)のような武闘派機動部隊が弼いようだったのでしょう。
日本でも、記憶に新しい鉄道車両内の殺人事件や、通り魔的な殺人事件、強盗殺人等凶悪な犯罪が増加している昨今、この乱れきった社会の治安を守るため、このような組織があっても良いのではないかと個人的には思うのです。
アメリカでは、電車内を郡警察(保安官)が巡回し検察も行っていて、キセル乗車などしている者を厳しく摘発しているんですよ。

現在はすっかり変わってしまった江戸、東京。
昔の面影を辿ることも少々虚しくなってしまうということもあります。
明治以降、関東大震災、東京大空襲などによって灰に帰してしまいましたから。
基本的には江戸時代の姿など残っていないのです。

ところで、小説鬼平犯科帳に登場する『清水門外の役宅』ですが、これ、実は小説の中の作り話で、実際は本所菊川の自邸が自宅兼役宅でした。
火付盗賊改方は臨時職(加役)なので、治安が悪化した場面場面で立ち上がるため、特定の役所としての屋敷はなく、その時任命された長官の自宅が役宅になることが常だったようです。
確かに、古地図を見ると、清水門の正面に御用屋敷と書かれてありますが、別の用途に使っていたのでしょう。

江戸時代の地図を見ると、清水門外の役宅があった場所には『御用屋敷』とあり、池波正太郎先生はその御用屋敷を清水門外の役宅に小説の中であてたのでしょう。

現在この場所には千代田区役所があり、且つては大隈重信の屋敷があったようです。
ここに足繁く渋沢栄一や伊藤博文など明治政府の重鎮などが通っていたのでしょう。

江戸町奉行は南町奉行所、北町奉行所と二つあり、老中直下の組織でした。
月番制で毎月交互に業務を行っていたので、南北奉行所が同時に仕事をしていたわけではなかったのです。

この江戸町奉行所は、首都、Metropolitanの行政・司法・警察を司っていた役所でした。
都庁であり、裁判所であり、警視庁であり、消防庁でもありました。

都知事であり、長官であった奉行は、徳川将軍家直属の家臣であった旗本の中から任ぜられ、中には大岡越前守忠相のように大名へ出世した方もいました。
ちなみに、多忙を極めた際は、中町奉行所が臨時で開所されることもあったそうです。

北町奉行所は、今の東京駅八重洲北口側の丸の内トラストタワーのある場所にありました。
江戸時代には、江戸城呉服橋門内と呼ばれた場所です。

南町奉行所は、現在の有楽町駅中央口にありました。
江戸時代、ここは数寄屋橋門内と呼ばれた場所です。
大岡越前守宛の木簡も発掘されています。

長谷川平蔵宣以(鬼平)は実在の人物でしたので、池波正太郎先生の創作ではありません。
実際に火付盗賊改方長官を務めたのは、天明七年(1787年)9月19日から天明八年(1788年)4月28日、天明八年(1788年)10月2日から寛政七年(1795年)5月16日まで、2度にわたって務めました。

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