見出し画像

小説『鬼平犯科帳/谷中・いろは茶屋』の舞台を散歩

はじめに

火付盗賊改方同心 木村忠吾(きむらちゅうご)が谷中(やなか)の「いろは茶屋」という岡場所にせっせと通いつめ、ここの飯盛女(めしもりおんな:娼婦のこと)「お松」に熱を上げてしまう。
ところが、勤務交代のため木村忠吾は事務方の内勤を拝命することとなり、外出できなくなってしまった。
ある夜、「お松」に会いたい一心で、忠吾はこっそり役宅を抜け出し、谷中へ向かってしまう。
そこで、谷中の善光寺坂を上って一乗寺の角を曲がったところで黒装束の盗賊団を目撃してしまう。
その盗賊団の首領は「墓火の秀五郎」である。

今回は改めてこの話の中の江戸を彷彿とさせる場所へご案内したいと思います。

谷中の江戸情緒が残る寺町、将軍家が万一の際に落延びる四谷にあった御先手組屋敷、奇しくもこの界隈には尾張徳川家屋敷跡に防衛省があり、今も昔も軍事の街の様相を呈しています。
そして、芝神明(しばしんめい)前にあったことになっている、うさぎ饅頭が名物だった「まつむら」があったとされる場所を散策してまいりましょう。

一、谷中・天王寺門前の「いろは茶屋」

天王寺

貞享(じょうきょう:徳川五代将軍綱吉の時代の元号)年間から谷中・天王寺門前に開かれた遊所です。
開所された当初から上方業者、近江(おうみ:今の滋賀県)辺りの出の者が多かったそうです。

この、谷中という地名は、元々駒込と上野の谷間(たにあい)であることが由来なのだそうで、鶯谷という地名も残っていることから察するに、この界隈は風光明媚だったのではないでしょうか。

火付盗賊改方同心、兎忠(うさちゅう)こと木村忠吾が谷中の岡場所、いろは茶屋の「菱屋(ひしや)」の飯盛女(めしもりおんな)である「お松」の元に入り浸る。
「ここには「いろは茶屋」とよばれる岡場所があって、貞享の時代から谷中・天王寺門前に開かれた遊所だ。」と、小説に記されています。

江戸幕府公認の娼婦街は吉原だけでした。
幕府非公認の娼婦街を岡場所と言われていました。
品川、内藤新宿、板橋、千住、赤坂、市ヶ谷、根津、谷中などで、この他にも岡場所は沢山あったそうです。

岡場所では、吉原のように堂々と客引きはせず、茶屋や旅籠屋などで飯盛女として客に給仕することを名目として働いていました。
料金は百文~五百文ほどだったそうです。
吉原の最低価格が七百文位でした。
ちなみに、一文は凡そ20円です。

いろは茶屋は実在していました。
谷中茶屋町、谷中の天王寺表門前にあり、町内にいろは茶屋と呼ばれる岡場所があったと江戸時代の古文書に記されています。

天王寺は、正式名称を護国山尊重院天王寺(ごこくざんそんちょういんてんのうじ)といいます。
元は日蓮宗寺院で、ご本尊も毘沙門天(びしゃもんてん)でしたが、明治になって天台宗となり、ご本尊も阿弥陀如来となりました。

二、芝神明前の菓子舗「まつむら」

芝神明前

火付盗賊改方同心 木村忠吾のあだ名『兎忠(うさちゅう)』の元になった銘菓、「うさぎ饅頭」を売っていたお店「まつむら」があったと小説「鬼平犯科帳」に記されている場所です。
木村忠吾の容姿や面相が、この「うさぎ饅頭」によく似ているっことから、『兎忠』や、単に『うさぎ』などと呼ばれるようになったものです。

榮太樓(えいたろう)さん

どうもこの「まつむら」という菓子舗は、同地に百三十余年の歴史をもつ「榮太樓(えいたろう)」のことではないかと思われます。
この芝神明前の榮太樓は、日本橋榮太樓本舗からの暖簾分けなのだそうです。
ちなみに、榮太樓の代表的なお菓子は、江戸時代から「江の嶋最中」なんですよ。

芝大神宮(旧芝神明宮)

現在、芝神明宮は、芝大神宮と名称を変えています。

武蔵国日比谷郷に鎮座していたことから、日比谷神明と呼ばれていたこともありました。

関東のお伊勢さまとも呼ばれ、明治政府の教務省、太政官正院、東京府の許可の下、明治5年8月30日から芝大神宮と称しています。

三、善光寺坂の数珠屋「油屋」

一乗寺
善光寺坂

兇賊・墓火の秀五郎一味の盗人宿であったと小説「鬼平犯科帳」に記されている場所です。
「火盗改メの同心・木村忠吾が『お松』恋しさに役宅を抜け出し、外神田から湯島をぬけて、根津へ出る。善光寺坂を上がって一乗寺の横路へ入ると、ここで黒装束の盗賊団を発見。
そのうちの一人の後をつけて、善光寺坂の途中にある「油屋」という数珠屋に入るのを確認する。
忠吾は反対側にある上聖寺から「油屋」を見張り、火盗改メへ急報する。」

川越の旦那と呼ばれた「墓火の秀五郎」の手下が、この盗人宿「油屋」という数珠屋を切り盛りしていたということです。

上聖寺

一乗寺も上聖寺(じょうしょうじ)も現存しています。
小説上で「油屋」とされている盗人宿の数珠屋があった場所には、上野消防署谷中出張所がある場所ではないかと思われます。

「油屋」跡(上野消防署谷中出張所)

この善光寺坂ですが、同じ名前の坂が文京区の小石川にもあるので注意が必要ですね。
そちらをこの鬼平犯科帳の舞台と勘違いされている方もいますが、正しくは根津側の台東区谷中にある善光寺坂です。

四、四谷御先手組長屋

四谷坂町

木村忠吾はじめ、火付盗賊改方の与力・同心が所属していた御先手組(おさきてぐみ)の組屋敷(組長屋)が多くあった場所です。
四谷は御先手組、御持組、大御番など、将軍を守る武士の住居がありました。
四ツ谷御門外です。

御先手組は、戦時には先陣を担当し、最初に敵陣に乗り込む役目で将軍直属の武闘派集団で、弓組、鉄砲組がありました。
普段、平時は江戸城外堀に面する城門の警備を行っていました。
長谷川平蔵は弓組の頭、つまり御先手組弓頭でした。
御先手組が加役として火付盗賊改方を担っていました。
加役とは、本業に加えて与えられた役職のことを言います。

長谷川平蔵宣以も、火盗改役長官としての実績や、石川島人足寄場立案、立ち上げから運営まで行った実績により加増や遠国(おんごく)奉行(長崎奉行、京都奉行、大阪奉行等々)への昇進があって然るべきなのですが、それは叶わず、四百石のままでした。
これは、幕閣の一部の重役から嫌われていたということもあったようです。

防衛省(旧尾張徳川家屋敷)

御先手組長屋跡界隈は、現在は閑静な住宅街が広がっています。
その先には、現在の防衛省があり、ここは且つては尾張徳川家の屋敷でした。

有事の際に、将軍が四ツ谷門から甲州へ逃れるこの場所に、将軍の供をするべく御先手組屋敷があったのでしょう。

今も昔もここは軍事の町だったのですね。

お知らせ

他SNSのフォローもしてくれると嬉しいです。
ブログも不定期に更新しています。

【YouTube】

【Twitter】
https://twitter.com/usakichi_net

【ブログ】
https://usakichi.net/


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?