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小説『鬼平犯科帳』の舞台『雑司ヶ谷鬼子母神堂』を散歩

小説「鬼平犯科帳」第三巻第六話「むかしの男」、第七巻第二話「隠居金七百両」の物語ほか、長谷川平蔵の市中見廻りを兼ねた散歩で時々訪れています。

長谷川平蔵は、盗賊、犬目の伝次郎逮捕のため甲州韮崎に出張していました。
ある日、平蔵の留守を守る妻久栄の元に一通の手紙が届きます。
盗賊の用心棒で、元旗本の出であった近藤唯四郎からでした。
その手紙を鬼子母神門前の茶屋「みょうがや」の老婆が預かり、目白台の長谷川平蔵留守邸に届ける。

鬼子母神堂

雑司ヶ谷鬼子母神堂(ぞうしがやきしぼじんどう)は、日蓮宗法明寺のお堂のひとつです。
永禄四年(1561年)鬼子母神像が出現したことに始まります。
天正六年(1578年)雑司ヶ谷の村人によって建てられた草庵に安置されました。

寛永二年(1625年)に社殿が造営され、正保三年(1646年)に宮殿が寄進されました。
鬼子母神堂には江戸時代前期より将軍の御成があり、江戸時代を通じて武家から庶民に至るまで広く信仰され、大いに賑わったそうです。

さて、鬼子母神とは、子授け、安産、子育ての神として祀られていますが、元々は古代インドの悪鬼でした。
本来の名は可梨帝母(カリテイモ:サンスクリット語ではハーリーティ)と言い、王舎城(おうしゃじょう:サンスクリット語ではラージャグリハ・現在の名称はラージギル)の夜叉神の娘で、八大夜叉大将の一人、散支夜叉(パンチカ)の妻でした。
可梨帝母が散支夜叉と結婚後、五百人~千人の子を産みましたが、その多くの子らを育てるためには多くの人を殺して食べることにより、もっと養えるのではないかと考え、多くの人を殺して食べていました。

鬼子母神像

お釈迦様は、この可梨帝母を哀れに思い、可梨帝母の子らを隠し、可梨帝母が自らの子がいなくなってしまったことを大変嘆き苦しみ、今まで自分が人々を殺して食べてしまっていた非道に気付いて反省し、仏法に帰依したのです。
お釈迦様は可梨帝母に、人間を食べないことを約束させ、吉祥果(ザクロ)の実を差し出し、人肉の代わりにそれを食べるよう諭したのです。
ザクロの実は人肉の味がするからなのだそうです。

以降、法華経の行者の守護、仏法を守護する神となりました。
信じる者には優しいが、仏法に仇をなす者には制裁を加えるという厳しい面を持ち合わせています。

日蓮宗の宗祖、日蓮聖人は、法華経の行者を守護されるこの鬼子母神を重視され、日蓮宗の御祈祷本尊とされました。

鬼子母神のお話は、サンタクロースの話に似ていますね。

ちなみに、雑司ヶ谷鬼子母神堂の「鬼子母神像」は、鬼ではなく幼児を抱いた菩薩の美しいお姿をしているので、漢字の『鬼』の字の上にある角(つの)を取った鬼の字を使用しています。

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