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小説『鬼平犯科帳/妖盗葵小僧』の舞台を散歩

はじめに

この話は実際にあった事件がモデルになっているそうです。
寛政三年から四年にかけて葵小僧なる凶悪犯に、火付盗賊改が翻弄されたのだそうです。

葵小僧は役者くずれの盗賊で、本名を芳之助。
葵の紋付の黒羽織に二本差し、黒覆面で顔を覆い、押し入っては金を盗んで女を犯すという凶悪犯で、江戸市民は『葵小僧』と呼んで恐れていたそうです。

一味の手口は声色を使って戸を開けさせて押し入るという手口だったのです。

葵小僧を捕縛した際、辱めを受けた女性たちの立場を重んじ、長谷川平蔵は奉行所に引き渡して白州(しらす)を行わせず、その場で斬り殺したのです。
本来であれば奉行所に引き渡して事情を聴取した上で罪状を明らかにし、磔、遠島、入牢等を申し渡されるのですが、その際に犯した女性たちのことを口にし、世間に広がることを危惧しての超法規的措置だったのです。
長谷川平蔵のそういった気遣いが沁みます。

一、和漢筆墨所・竜淵堂(りゅうえんどう)

日本橋

小説「鬼平犯科帳」では、葵小僧の被害に遭い夫婦で自殺した竜淵堂の主人 京屋善太郎と、兄の袋物問屋吉野家の主人 治兵衛が「木更津河岸(きさらずがし)」で船を下りる。
日本橋 通り四丁目「竜淵堂」の主人 京屋善太郎と兄の治兵衛が、密偵粂八が店主を務める深川石島町の船宿 鶴やで密談後、舟で帰って行く二人の姿を粂八が尾行する。

「木更津河岸」は、房州木更津の木更津湊の人々に専用揚場(荷揚げ)として特権が与えられていました。
そのため、江戸市中にあるのに、木更津と名が付くのです。
木更津船が江戸幕府から江戸と安房、上総の渡船営業権を与えられ、江戸船町(中央区日本橋)に木更津河岸を公認されていた。
大阪冬の陣で木更津の水夫が徳川方に協力したことによるとされています。

二、戸田家屋敷

戸田家屋敷跡

小説「鬼平犯科帳」では、文具店 和漢筆墨所「龍淵堂」は、青山に屋敷がある五千三百石の大身旗本 戸田家の出入り商人と記されています。
この戸田家の用人 小沢孫兵衛の声色を使って龍淵堂に押し入り、主人の目の前で女房のお千代を葵小僧に犯されてしまったと記されています。
両手を縛られている苦しい姿勢でいながら、次第に、お千代の眉と眼が、善太郎の愛撫にこたえているときの表情に移り変ってゆくのを・・・・・
この事件以来夫婦関係を変えてしまった。

戸田家は、江戸切絵図を見ると、確かに青山にありました。
小説上では戸田内記とありますが、史実では戸田隼人正(とだはやとのかみ)の屋敷がありました。
現在の秩父宮ラグビー場近くの、港区青山二丁目、東京メトロ銀座線外苑前駅の前にあり、向かってその右隣りは酒井作左ヱ門、左隣りは小笠原長門守(おがさわらながとのかみ)の屋敷がありました。

三、浅草寺(せんそうじ)

浅草寺

小説「鬼平犯科帳」には、葵小僧に夫の目の前で犯された内儀お千代が、不覚にも快楽を感じてしまったことを恥じ、老女中と一緒に浅草寺に出かけ、行方不明になってしまうのです。

飛鳥時代、推古天皇(すいこてんのう)の御代から約1,400年の歴史があります。
宮戸川(現 隅田川)のほとりに住む檜前浜成(ひのまえはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が漁をしている最中に仏像を発見し、土地の長である土師中知(はじのなかとも)に見てもらうとその仏像が聖観世音菩薩の尊像であることが分かりました。
翌日、童子たちが草で作ったお堂に、この観音様をお祀りしました。
その後、浜成・竹成兄弟は私邸を寺に改め、観音様の礼拝供養に生涯を捧げたのだそうです。
観音様示現の日(兄弟が発見した日)、一夜にして辺りに千株ほどの松が生じ、3日を過ぎると天から金の鱗をもった龍が松林の中にくだったと縁起に記されているそうです。
当山の山号「金龍山(きんりゅうざん)」の由来となったのです。

大化元年(645年)勝海上人(しょうかいしょうにん)なる僧が当山に立ち寄り、観音堂を修造したある夜、上人の夢に観音様が現れ、「みだりに拝することなかれ」と告げられました。
それ以降、厨子に安置し秘仏として奉安しているのだそうです。
天安元年(857年)比叡山第三世天台座主慈覚大師円仁(ひえいざんだいさんせいてんだいざすじかくだいしえんにん)が来山しました。
ご本尊の前に奉安されている御前立は、この時に謹刻されたと伝わっているのだそうです。
慈覚大師は、浅草寺の中興開山と仰がれている所以であると伝わっています。

浅草寺は幾度の火災や震災、そして戦災で灰となり、昭和33年に無事落成したのだそうです。

秘仏のご本尊浅草観音は、幾度かの災害にもその都度運び出されて無事でした。
現在では、東京大空襲の際、本堂の真下、地中約3メートルのところに埋めた青銅製天水鉢の中に安置されており、本堂焼失に遭われてもご本尊は安泰であったとのことです。

浅草寺の正式名称は、聖観音宗(しょうかんのんしゅう) 金龍山浅草寺と申します。
浅草寺は聖観音宗の総本山です。

四、小間物屋・日野屋

仲町通り

今は残っていない地名、池の端仲町、小説「鬼平犯科帳」には、ここに日野屋があり、葵小僧は再びこの日野屋に押し入ろうとしていました。
日野屋文吉の女房 おきぬの愛撫に耐える姿がたまらないという訳である。
日野屋がいかに戸締りを厳重にしたところで無駄であるのは、何と日野屋のお隣、鶴屋の主人 芳之助が葵小僧だったからなのです。
日野屋の勝手口へ潜入することは、葵小僧一味にとってわけもないことだったという訳です。

池の端仲町の一体どの辺に日野屋と鶴屋があったのかはわかりませんが、江戸時代ここには多くの商家で賑わっていたのです。

長谷川平蔵は、葵小僧を切って捨てた後、幕閣からも庶民からも非難を受けたが、平蔵はきっぱりと「それが火盗改メのお役目である」と言い切ったのです。
威風堂々、凛としたこのような人物が、現代にいるだろうかと考えてしまいました。

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