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小説『鬼平犯科帳』の舞台『蕎麦や・瓢箪屋(ひょうたんや)』を散歩

小説「鬼平犯科帳」では、「火付盗賊改方の息のかかった店で、主人の佐右衛門は、微禄ながらも、もとは幕臣であったといわれている。」と記されている。
この瓢箪屋で、火付盗賊改方与力である佐嶋忠介と元盗賊弥一(青坊主の弥一)が密会し、乙坂の庄五郎と、縄ぬけの源七の一件を伝え、貝柱のかき揚げを浮かせた蕎麦で酒を酌み交わしたとあります。

瓢箪屋があったとされている場所は麹町四丁目、江戸城四谷御門内にある町人街です。
今の麹町三丁目新宿通り界隈でしょうか。

推定・『蕎麦や・瓢箪屋(ひょうたんや)』

江戸時代の書物「衣食住記」には、享保年間に麹町瓢箪屋というくだりがあるそうなので、実際に存在したのでしょう。
享保年間といえば、八代将軍徳川吉宗の時代ですね。

さて、江戸時代の話には蕎麦が欠かせませんね。
今回はその蕎麦について少々詳しくお話したいと思います。

蕎麦は縄文時代からその存在が確認されています。
島根県の遺跡からは、一万年前の蕎麦の花粉が発見されているのだそうです。
中国から渡ってきたなどと言われていますが、元々日本列島に存在していたものではないかと推測しています。
日本人は、とかく海の向こうにルーツを求めるのが好きですから、何でもかんでも海外がルーツになってしまっています。
うどんのルーツはベトナムだとか言われる始末ですから。

文献上では、続日本紀(しょくにほんぎ)に養老六年(722年)7月奈良時代に発せられた詔に、早害に備えるため晩稲(遅く実る稲)や蕎麦、大麦、小麦を植えて備荒対策とするよう指示を出しています。
その後も養老七年(723年)8月28日に蕎麦の栽培の奨励を命じた2通の太政官符を発布したとあります。
要するに、この時代は、貴族などの高貴な人々が口にするようなものではなく、飢饉などの飢えに喘いだ農民たちが口にした救荒食物であったと考えられます。
しかも、元々は蕎麦の実を挽いて「そばがき」などにして食するのではなく、当時は粒のまま粥などにして炊いて食べていました。
その後、時代が下り、実を挽いて粉にし、それを捏ねてふかしたり、湯がいて食べるようになったのです。

特に信濃国のような高地で、穀物が育ちにくい土地で盛んに栽培されました。
主食である米の代替品ということですね。
信州名物おやきも同じ理由から食べられていたのです。

ソバは、1年で3回も収穫でき、しかも痩せた土地でも栽培できるという優れモノなのです。
しかも脚気予防、豊富なたんぱく質、アミノ酸の含有、ルチンの効果により毛細血管強化・高血圧予防・酸化防止などの効果があります。
ソバを沢山食べる長野県民が、健康で長生きなのは、上記の理由からなのでしょうか。

江戸時代になると、蕎麦を麺にする「蕎麦切り」が、これまた信州で始まり、たれを付けて軽快にツルツル食べる食べ方が全国に広がりました。
現在ではかつおだしの醤油ベースのつゆが主流ですが、江戸時代は味噌の汁に付けて食べていました。

信濃国に転封してきた大名が地方へ転封すると、信濃の旧領から蕎麦職人を連れて行き、新たな地でソバを栽培し、蕎麦職人に蕎麦を打たせたと言い、その関係で日本全国に蕎麦を名物とするところが増えたとも言われています。

江戸では、せっかちな江戸市民に「手軽にツルツル早く食べられる」ことから蕎麦屋が繁盛し、砂場、更科、藪など三大蕎麦屋ができました。
今でも東京で繁盛していますね。

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