小説『鬼平犯科帳』の舞台『柳島・妙見堂』を散歩
本所深川は江戸の下町と言われ、町屋だけしかなかったと思われがちですが、旗本や御家人の屋敷や、大名家の下屋敷、幕府の組屋敷などが沢山ありました。
勝海舟や吉良上野介の屋敷も本所深川界隈にありました。
さて、今回は小説鬼平犯科帳によく登場する、本所押上村、柳島の妙見堂、深川の仙台堀に行ってきました。
押上と言えば、現在、東京スカイツリーがある場所ですね。
スカイツリーのお陰で押上も有名になりました。
元々は本所の町はずれの田畑が広がる農地、つまり百姓地でした。
江戸時代は今より複雑で、押上村の中に柳島村があったり、柳島村の中に押上村があったりと、とても入り組んでいたのです。
今ではビルや家屋が建ち並ぶ押上村、昔の面影は見当たりません。
本所消防署がある場所は押上村、深川商業高校がある場所は柳島村、警視庁第二機動隊のある場所は脇坂淡路守の屋敷でした。
柳島の妙見堂、その門前のそば屋のくだりが小説鬼平犯科帳「唖の十蔵」の回に登場します。
実際にそば屋がったかというとわかりません。
ただ、高級料亭「橋本」という店はあったようです。
柳島の妙見堂、正しくは妙見山法性寺(みょうけんざんほっしょうじ)といいます。
今でもこの通り、しっかり昔からの場所に存在しているのです。
かつては多くの江戸庶民の信仰を集め、葛飾北斎も足繁く訪れていたといいます。
日蓮宗の寺院で、天正元年(1573年)の創建で、江戸城の鬼門除けとして置かれたお寺です。
深川の仙台堀、上記と同じ回で、火付盗賊改方同心唖の十蔵こと小野十蔵が、盗賊の一味であった助次郎の女房おふじの身の上に同情し、その身柄を匿うことになった。
そんなお話の中に出てくる仙台堀です。
今の清澄庭園の向かいにある仙台堀川が、江戸時代は仙台堀という堀でした。
仙台藩(伊達家)の屋敷があったわけでもないのに、なぜ仙台堀と呼ばれたのでしょうか?
実は、仙台藩祖伊達政宗が掘削した堀だからだといわれています。
現在は、仙台堀川と呼ばれ運河になってしまっています。
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