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小説『鬼平犯科帳/座頭と猿』の舞台を散歩

はじめに

盗賊 「蛇の平十郎(くちなわのへいじゅうろう)」配下の座頭(ざとう)「彦の市(ひこのいち)」は、四谷の麹屋横丁に茶汲女(ちゃくみおんな) 「おその」を囲って住んでいた。
その「おその」が大盗賊 「夜兎の角右衛門(ようさぎのかくえもん)」の配下、美君子小僧(びくんしこぞう)と呼ばれた「徳太郎」であった。
二人はお互いの正体を知らぬまま「おその」を我が物にしようとあらそう。
そういうお話です。

江戸の町には情緒があり、その情緒を今に残す場所が結構あるのです。
あれ?ここは江戸時代か、と、思わず錯覚すらしてしまうような一角が残っていることは本当に素晴らしいと思うのです。

一、浅草鳥越の松寿院門前の花屋

江戸には今と比べ物にならないほどお寺がありました。
小説鬼平犯科帳にもいろんな場面で登場します。

さて、浅草は鳥越(現 台東区鳥越二丁目)の松寿院ですが、実際には寿松院(じゅしょういん)、浄土宗不老山寿松院無量寺(浄土宗総本山知恩院末)と言います。
小説の中では松寿院と記されています。

小説『鬼平犯科帳』(一)「老盗の夢」に出てくる、元盗賊の頭であった蓑火の喜之助(みのひのきのすけ)が、最後のおつとめ先と定めた四谷御門外の蝋燭問屋三徳屋への助っ人を依頼するために訪問した、二代続きの大盗賊・夜兎の角右衛門一味の盗人宿が、門前の花屋の2階にあったと記されている。
花屋の主は、前砂の捨蔵(まいすなのすてぞう)といいました。
現在は寺の規模も縮小され、随分江戸時代とは町割りも変わってしまっています。
当然、花屋も存在していません。

松寿院(敢えて小説に倣い、松寿院と書かせていただく)は、元々相模国(現 神奈川県)の小田原にあった寺院です。
北条氏(北条早雲から始まる後北条氏)から徳川氏の領国となって、徳川家康の帰依を受けた善譽上人林貞に帰依し、徳川家康の命によって江戸に創建されました。

天正十八年(1590年)徳川家康によって江戸に移され、当初は鍜治橋御門内(現 千代田区丸の内)に建てられたましたが、慶長八年(1603年)に柳原雁淵(現 千代田区岩本町)に移転、正保元年(1645年)に現在地に移転しました。

かつて、隆盛を誇っていた頃は、長寿院、信入院、良称院、峯体院、隆崇院、空厳院、玉泉院、紹隆院、清閑院などの堂塔を擁していましたが、現在は、長寿院と信入院のみが残るだけです。

鳥越松寿院付近には、御書院番組屋敷、大御番組屋敷が密集していました。
御書院番とは、江戸幕府の職制で、徳川将軍の馬廻衆(現代風に言うと親衛隊)のことで、格式が高く、出世の道が開かれていた役職でした。
また、大御番組は、徳川将軍の常備兵力であり、江戸幕府に設けられた職制です。
番方組織の中で一番大きく、書院番と小姓の下に置かれ、老中支配であり、武官として江戸城や幕府直轄の城(大阪城、二条城、甲府城など)の警護を行う役目を担っていました。

江戸時代、鳥越の新堀通の真ん中には堀があり水をたたえており、その名残りで「新堀」と称するのでしょうか。

蔵屋敷跡

大川(隅田川)側には浅草蔵屋敷がありました。
そのため、その付近を蔵前といいます。

二、四谷御門外の蝋燭問屋「三徳屋」

彦の市は、ここ三徳屋の主人治兵衛の揉み療治も行っていました。
そもそも、蓑火の喜之助を首領とする盗賊たちを三徳屋に引き入れるために出入りしていたのですが、当夜押し込んでこなかったばかりか、蓑火の喜之助は仲間三人と争い、相討ちになって死んだそうな。
という三徳屋ですが、江戸城四谷御門外にあったということになっています。

四谷門跡

四谷御門は、寛永十三年(1636年)に長州藩主毛利秀就が担当して築いた門です。
四谷見附は、万一、敵に攻められ、将軍に危険が及びそうになった際の甲州甲府城に逃れるための退路でありました。
半蔵門から四谷門を出て甲州街道を通って行くのです。

四谷御門見附がある麹町の町名は、国府(甲府の旧名称である国府のこと)路(国府に通じる路という意味)から麹町と呼ばれるようになったそうです。

三、愛宕神社(あたごじんじゃ)

小説鬼平犯科帳第一巻第七話に登場する座頭(ざとう)彦の市が、毎月三日決められた日の揉み療治のために通っていた、表御番医師(おもてごばんいし) 牧野正庵(まきのしょうあん)の屋敷があったとされているのが、ここ愛宕下なのです。
また、彦の市の囲われ者、「おその」が茶汲み女をしていた茶屋「井筒」が愛宕山門前にあったことになっているのです。
さて、その愛宕神社ですが、火産霊命(ほむすびのみこと)を主祭神としています。
慶長8年(1603年)に徳川家康の命により、防火の神社として創建されました。
江戸の大火で全焼してしまいましたが、明治10年9月に再建されたのだそうです。

愛宕神社

その後、大正12年9月1日に関東大震災、昭和20年5月24日東京大空襲によって焼失しましたが、昭和33年9月に再建されて現在に至っています。

標高26メートルの愛宕山の山頂にあり、江戸に於いては一番高い山になるのだとか。
江戸時代末期、この愛宕山から江戸市中を撮影した写真は有名ですね。

左側が男坂、右側が女坂

ちなみに、この正面の男坂の石段は出世の石段と呼ばれています。
三代将軍徳川家光が増上寺参詣の折に、愛宕山の梅の花を見つけ、その梅を馬に乗って取って来いと命じたが、皆恐れて応じる者がいなかったが、伊予丸亀藩の藩士 曲垣平九郎(まがきへいくろう)という者が馬で男坂を駆け上がり梅を家光に献上したという話が残っています。
平九郎は、家光より。「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は日本全国に知れ渡ったそうです。

それ以降、現代まで実際に馬で男坂を駆け上がり、上記の話が実証されているようです。

四、鈴ヶ森刑場跡(すずがもりけいじょうあと)

小説「鬼平犯科帳」第一巻第七話に登場する品川の刑場『鈴ヶ森刑場』跡。
五十海の権平(いかるみのごんぺい)一味18名が逮捕され、翌日には品川の刑場で磔にされたものだ。
とのくだりがあります。

鈴ヶ森刑場跡

東京都品川区南大井に且つて存在した刑場です。
千住大橋南側の小塚原町にあった小塚原刑場、八王子市大和田町の大和田橋南詰にあった大和田刑場と並んで江戸三刑場と呼ばれました。
鈴ヶ森刑場は、元々高輪木戸近くに開設された芝高輪刑場、芝口門(札ノ辻)に開設された芝口札ノ辻刑場が手狭になったため、慶安四年(1651年)に新設されました。
明治四年(1871年)に閉鎖されるまで220年間処刑場として機能していて、約20万人もの罪人がここで処刑されたといわれています。

磔台
火炙台

天一坊や八百屋お七もここで処刑されました。
現在は、処刑された者たちの供養のため、大経寺が建立されている。

磔、水磔、火あぶりの刑などが行われてたそうです。

処刑場などを訪れた際は、供養の気持ちをもって訪れ、できれば帰りの道すがら、神社があれば境内に入ってお詣りをしましょう。

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