小説『鬼平犯科帳』上司『京極備前守高久の屋敷跡』を散歩
小説「鬼平犯科帳」では、火付盗賊改方長官である長谷川平蔵宣以の直属の上司であり、良き理解者として登場する若年寄「京極備前守高久(きょうごくぼぜんのかみたかひさ)」です。
ただ、実際は長谷川平蔵と対立していたと言われる旗本四百石・森山熊五郎(源五郎)孝盛を庇護していたのではなかったかと論ずる方もおられるそうです。
さて、京極高久は享保十四年(1729年)四月二十四日、丹後峰山藩(たんごみねやまはん:現在の京都府京丹後市峰山町吉原)一万一千石の分家、一千石の旗本京極京極高庭(たかなお)の四男として生まれ、幼名を千之助といいました。
寛保元年(1741年)、峰山藩五代藩主京極備後守高長(きょうごくびんごのかみたかなが)の養子となり、明和二年(1765年)八月八日藩主に就任しました。
大番頭等を歴任後、天明八年(1788年)若年寄(幕府の老中に次ぐ重職)に任じられ、松平定信の寛政の改革期に幕政に参与したのです。
幕府の重職を担うことになったため、藩政は京極周防守高備(きょうごくすおうのかみたかまさ)が取り仕切るようになりました。
その後、寛政三年(1791年)に京極高久は、辞任を申し出ましたが、許されませんでした。
文化五年(1808年)四月二十日、江戸にて逝去。
享年八十歳。
出自は、藩祖、丹後一国を支配した、若くして豊臣秀吉に仕えた京極高知(きょうごくたかとも)の高知流京極家の血筋です。
高知は、秀吉から羽柴姓を許されていました。
嫡流は丹後国宮津藩主家でしたが、三代で改易されてしまいましたが、後に江戸幕府高家(えどばくふこうけ:儀式・典礼を司る役職。高家旗本)として幕末まで続きました。
京極氏は、宇多源氏佐々木氏流で、平安時代から続く家柄で、近江源氏とも称されました。
佐々木氏は鎌倉時代に近江他数ヵ国の守護に任じられ、京都の京極高辻の館を継いだ佐々木信綱(ささきのぶつな)の四男、佐々木氏信(うじのぶ)を祖とする一族が館の場所から、京極氏と呼ばれるようになったのが始まりです。
家紋は「平四つ目結」。
江戸上屋敷は、上西之御丸下とあり、そこは現在の赤坂溜池、永田町の衆議院第一議員会館付近です。
約四千坪の敷地でした。
下屋敷は、現在の墨田区江東橋五丁目界隈にありました。
戒名は、謙徳院殿明譽高久道徴。
従五位下備前守。
墓所は京都府京丹後市峰山町吉原の安泰山常立寺。
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