小説『ヌシと夏生』23_橋の姫
「櫻橋。これだね」
何の変哲もない橋だった。
二車線と左右に歩道がある、都内のどこにでもあるような橋だ。強いて言えばなんとなく、きれいな橋。
川の両岸にずっと遠くの方まで並ぶソメイヨシノは、開花のころにはさぞきれいだろう。
「ヌシは何か見える?」
「夏生は?」
「ただの橋にしか見えない」
「わたしもだ」
どんよりと曇った空の下、夏生はマフラーをはずし、巻き直した。ちょっとした隙間から入る風が冷たい。ヌシはお気に入りの龍の刺繍の入ったスカジャンを羽織っているが、それほど寒さは感じていないようだ。スカジャンの下は相変わらず白いワンピース一枚だし、赤いバスケットシューズの中は素足だ。
どうしてヌシが素足だということを夏生が知っているのか?というと、靴下はヌシのお気に召さなかったからだ。一度、靴下を買ったとき、ヌシは嬉しそうに履いたものの、すぐに「これは嫌だ」と脱いでしまった。それ以来、靴下を履いている姿は見たことがない。
「さてどうしようか?このまま待つにしてもいつ出てくるかなんてわからないし」
川沿いの両岸にはタワーマンションが並ぶ。この一帯は都内でも最近再開発が進んでいる地域だ。よどんだ川のほとりに人工的に造られたきれいな街が限定的に広がる。
「チラシで見たのとはずいぶんと違うな。桜も咲いていないし、芝生もないし、川も汚い」
ヌシの声が残念そうなトーンに下がっている。
「こんなところに社はいらない」
「仕方がないよ。マンションのチラシの目的はそれを見た人をその現場に連れてくることなんだから。まず、その不動産屋かどこかチラシに書かれた番号に電話がかかってくれば、その時点でまずは第一段階クリア。次は電話口で現地見学の予約を取るとか、それから現場に来たらまた別のからめ手が用意されてて。営業が付いて、少しずつ気分を盛り上げて、いくつかの段階をクリアさせていく。で最後はマンション購入の契約をしてゴール。そういう風に段階を踏んで、小さなゴールを用意してるんだ。たぶん現地見学に行って『チラシと違うね』と言ったら、いくらでも反論は用意されてるよ。営業マンにとっては無視されるより反論される方がやりやすいんだ」
「そんなもんか?やけに詳しいな」
「大体そんなもんだと思うよ」
「なんか騙されたみたいで気分は悪いが、そんなものなら仕方がないな」
ヌシがつまらなそうに伸びをした。
始まりは夏生が、美津さんの勧めで立ち上げたウエブサイト「不思議な話マガジン」に届いた「橋に怖い女の人が出ます」という相談だ。
夏生の直属の上司である美津さんは、今でこそ経営を譲って自らは会長としてのんびりしているが、もともと一人で創業し、ずっと会社を育ててきた経営者だ。
第一線を退いた美津さんの下で働くことは、今の会社では左遷どころか解雇に等しい。会長室に異動した人は、その一ヵ月後には皆退職している。
夏生も会長室への異動と同時に辞表を出した。しかし、どういうわけか結局そのまま会社に残っている。
「不思議な話マガジン」では、ヌシと出会ってから意識して集め始めた、少し不思議な話を紹介している。意外と評判は悪くなく、少しずつだがアクセス数も伸びている。毎晩、会社から帰宅したらまずこのサイトを立ち上げてみるのが、いつしか夏生の日課になった。
送られてきた相談のメッセージには、川の名前と橋の名前とが記されていた。検索すると確かに都内に存在するみたいだ。しかし、怖い女の人っていうのがどう怖いのかは何の説明もない。ソファで横になってポストに入っていたチラシを眺めているヌシに尋ねてみた。
「橋のたもとに出る妖怪って知ってる?小学生かな?子どもだと思うんだけど。そんなメッセージが来たんだよね」
「知らない。興味ない。関係ない。そもそも怖い女なんていくらでもいるだろう。怖くない女がいたらその方が事件だ」
「すごいバッサリと切るな」
「夏生が何かをしてあげられるのなら、勝手に何かすれば良い。でも、もしも何もできないのなら……」
そこでヌシは言葉を切った。
「……無責任にかかわらない方が良い」
返す言葉は何もなかった。
何もできない。ならばこのメッセージは最初からなかったものとして無視しよう。
しかし、ネット上に流れる暗いニュースを見ると、不安にもなる。もしも変質者か何かに狙われている子どもからの助けを求める声だったら?たまたま問題の処理の仕方がわからずにお化けといった形で問題が表れているとしたら?
「それは親なり、その子の学校の関係者なり、警察なりが解決すればいい問題だ。全くの他人である夏生が出ていく必要はあるまい」
確かに、そうかもしれない。
でも……。
「すごく機嫌悪いな。お腹でもすいたか?」
「別に」
「なんか気に入らないことがあるとか?神様的に?」
ぼそぼそとヌシが何か口にするが、うまく聞き取れない。そんな夏生を見て、少しだけ声のトーンを上げる。
「こういうところに住みたい……」
「?」
「こんなおしゃれできれいなところに……、お社が欲しいな……」
ヌシが指を指すチラシには最近、都心で再開発が進んでいる地域のタワーマンションが描かれていた。一緒に眺めているお地蔵さんも心なしか頷いているように見える。駅から近く、緑が多く、川沿いのおしゃれな空間。マンションでも軽く億はする。
「無理だな」
申し訳ないが、変に期待を持たせるよりは、バッサリ斬った方が親切というものだ。
「なぜ?」うすうす無理だとは分かっていただろうが、あまりに即答過ぎて、唖然としているヌシに、追い打ちをかけるように、「お金がない」と嘘偽りのない真実を伝える。
というより、本当に神様ならこの状況を何とかして欲しい。
勤続年数は長くても、給料はさほど上がっていない。そこに社内で最も日の当たらない会長室に異動になって、会長である美津さんのおかげで細々暮らしているのが現状だ。
そんなところに、龍神を名乗る少女と、お地蔵さんが突如転がり込んできてるのだ。ご利益が一切ないくせに、食費など出費はかさむ。しかしそんな声は、この神様とお地蔵さんには届きそうもなかった。
「東京はこういうきれいな街でおしゃれな人がたくさんいると思ったから、ずっと夢見てたのに。全然違う」とヌシが嘆く。
「この辺だって良いじゃないか。商店街はあるし、活気あるし。まあ部屋は汚いアパートだけど」
「確かに人はいる。商店街も悪くない。けれども!だ。一生に一回くらい、こういう素敵なところで暮らしたいじゃないか?乙女としては。どこかおしゃれな街の神社で神様を募集してないか?」
「神様って募集するものなのか?お地蔵さんだったらしれっとたたずんでおけばそれだけで良さそうだけど。神様は社を建てなくちゃいけなさそうだし。むしろこういうところで困ってる人を助けるとか。すごくいいことをして、崇め奉られる方が早いかもしれないよ。だってこういう高いマンション買えるくらいのお金持ちがたくさん住んでるわけだろ?『神様っていいな』って思ってもらえれば、神社は無理でも小さな祠くらいなら、すぐ建立してもらえるんじゃないか?」
「夏生!それ、すっごく良い!この辺りで困ってる人いないか?」
「いるよ」
「本当?」
「さっき言った怖い女の人が出る橋って、住所で見たらたぶん、このチラシのマンションの辺りに掛けられた橋だよ」
「なんと!すぐに助けに行こう」
「今、かかわらない方がいいって言ったじゃないか?」
「夏生がメッセージを受け取ってしまった時点でもうかかわっているのだ。かかわってしまったものは仕方がない。行くしかないだろ?」
次の瞬間には「お地蔵さんは留守番だ。電車に乗るからな。あきらめてくれ」と叫んで、靴を履いて飛び出そうとする。
「おい待てよ、もう遅いよ。今度の週末にでも、朝から行ってみよう」
夏生は慌ててパソコンを閉じた。
(つづく)