小説『ヌシと夏生』29_駕籠
チラシの描かれた中年男性の絵、つまり夏生のことだが、覇気のない顔には無精ひげまで丁寧に再現されており、そのデフォルメされた冴えなさ具合には悪意すら感じる。
何より、連絡先が書かれていない。これではチラシを受け取った人は困る。チラシとしては明らかに失敗作だ。しかも裏面は真っ白だが、つるつるのコート紙なのでメモ帳代わりに使うこともできない。
「せめてマジックでも何でも良いから連絡先を書き足すとか……」と、夏生が言いかけた時、インターホンの音が鳴った。
「はーい」
扉の外に向かって声を掛ける。
「すみません。先ほどのお客様がこちらにいらっしゃらないでしょうか?」
ドアを開けると、スーツ姿の男性が立っていた。細身だが禿げ上がった姿は、夏生より年齢は一回り上のように見える。
「どちら様?」
「ニコニコタクシーです。先ほどお乗せしたお客様のお支払いがまだお済ではなくて、ですね」
「はあ」
「あの、手持ちが足りないので家に取りに行くとおっしゃって。しばらくお待ちしていたのですがお戻りにならないので」
「何の話ですか?」
「若い女性の方、今さっきこちらにいらしたと思うんですけど」
「誰も来てないですよ」
「そんなはずはないですけどね。ちゃんとこの部屋に入って行くの見たんですけど」
確かに、夏生の暮らす古いアパートは通りからドアが見える。二階の一番端にあるので、入る部屋を間違えるということもないだろう。年相応に薄くなってはいるけれど、まだ禿げてはいない。細身で真面目そうなこの運転手が嘘をついているようには思えない。でも……。
「誰も来ていないですけど」
「いい加減にしてくださいよ。こっちも仕事なんだから。刀根山からここまで、二千八百五十円」
「ずいぶんあるね。でも今日はずっと家に居るけど本当に誰も来てないですよ」
「ふざけないでくださいよ。そこにいるじゃないですか?」
「はい?」
振り返るとヌシがソファの上で寝転んでいるのが見えた。
「……」
「あそこにいるじゃないですか。髪が長くて……。間違いない」
そこまで言うなら仕方がない。顔を見れば人違いだとわかってくれるだろう。
「ヌシ、ちょっときて」
「なんだ?」
ヌシが玄関に出てきた。
「そのお客さんってこんな顔でした?確認してください。でも彼女は昨日の夜から、ずっと私と一緒にここに居ました。出かけていないし。タクシーを利用した人じゃないですよ」
「……運転してるからそんなにお客さんの顔ばかりを見ているわけじゃないからね。女の人だったしジロジロ見るわけにはいかないでしょう。でもこっちもプロなんだから。特徴はすぐに抑えますからね。間違いなくこの人ですよ。髪が長くて色白で……」
完全に疑いのモードに入っている。
「おっしゃっていることがよくわからないけど、ここで喧嘩をしても仕方がないから会社でもどこでも連絡してください。私も必要なら警察呼びます。乗車する時の様子とか、街中の防犯カメラでもドライブレコーダーでも何でも、記録があるなら全部確認してもらって、本当に彼女かどうか、調べてもらいましょう」
「会社にはちょっと……」
警察よりも会社に連絡という言葉の方が気になるみたいだ。「いやあ、しかし……」と言いながら、この会話の落としどころを探すかのように「若い女の人で雰囲気はすごく似ていたと思うんだけどな」と独りごとのようにつぶやいた。
「どんな顔だったかは見たんでしょ?」
「そりゃあもちろん。バックミラー越しに……」言いかけて、運転手の顔が曇った。
「本当に見たのか?その女性はちゃんと鏡に映っていたか?」
いつになく厳しい口調でヌシが問いかける。
「ミラー越しに……」
嘘はつけない性格らしい。途端に自信なさそうな表情になった。
「よくある怪談だとその乗客が入った家ではお通夜とか葬儀が営まれていたということになるのだろうけど、ご覧の通り。ただの部屋で葬儀は行っていません。嫌疑をかけられてる居候は、朝から何もせずにソファに転がってだらけていただけで、外には出ていません」
「だらけていたわけではない。ずっとビジネスの計画を練っているんだ」
心外だとばかりに「仕事が舞い込んで来るのを待つのも大切な仕事だからな」とヌシが力強く言い放つ。仕事がなくてお金に困ってると思われたら、疑いは返って深まることまでは考えなかったようだ。
「仕事を待つのが仕事っておかしいだろ?時間があるなら自分で作ったチラシでも配って来いよ。どこに連絡すれば良いのか書かれてないから、もらったひとも困っちゃうだろうけど」
「それもそうだな。ちょうど良い。我々に依頼すると良い」
ヌシがチラシの山の一番上の紙を一枚、気の毒な運転手に渡した。
「お化け問題の解決は得意だ。貴様、取り憑かれている匂いがする」
ヌシがにっこりと、力強くほほ笑んだ。
ふと夏生はこの運転手が気の毒に見えてきた。事情はどうあれ、彼の話を信じるのならば、無銭乗車された上に何かを売りつけられようとしているのだから、弱り目に祟り目とはこのことだ。しかも売りつけている相手は、神だ。神様としての実力のほどは定かではないが、見た目のか弱そうな姿とは裏腹に力は強い。ついでに言うと、この神は冗談を言ったり、嘘をついたりはしない。つまり、ヌシが「取り憑かれている」と言うなら、本当にこのタクシーの運転手には何かが憑いているのか、普通の人とは違う雰囲気を感じるのだろう。
あまり幽霊とかそんなものは信じようとは思わないが、ヌシと出会ってから、あってもおかしくないというように認識は変わった。不可解さで言えば、普段利用している電子レンジだって、コンビニの弁当がなぜ温まるのかその理屈は夏生にはわからない。それと同じようなものだ。
「よせよ。変な商売押し売りするな。でタクシー代っていくらなんです?」
夏生が財布をポケットから出した。払ってもらえると思ったのか、とたんに嬉しそうな表情を浮かべる運転手を見て、正直、げんなりした。
「だから。二千八百五十円ですけど……。ですが端数はせっかくなんでおまけします」
夏生の目が泳ぐ。こじれそうなのでお金を払って解決しようとも思ったが、財布の中には千円札が二枚と小銭しか入っていない。
「……乗ってもいないタクシー代を支払うというのは、やはりちょっと、心情的に……」
そのまま財布をしまった。
「死んだ人の魂をネタにゆすりをするというなら覚悟はできているよね?」
ヌシの冷ややかなひと言に、運転手の顔は一瞬で固まった。土気色ってこんな色なのだろうなと夏生が感心してつい顔をのぞき込んでしまったのが悪かった。運転手の顔はみるみる紅潮していった。
「俺が嘘をついているとでもいうのか?」
さっきまでの気の弱そうな笑みは完全に消え去り、取扱いが面倒くさそうないやらしい顔になった。
「別に運転手さんが嘘をついてるなんて言っていません。ただここには誰も来なかったのも事実です。だからタクシー代をお支払いするわけにはいかないです」
夏生が言った。
「良いだろう」ヌシが言う。「行くぞ」とソファの上にあった龍の刺繍の入ったスカジャンを羽織った。しかし財布には二千円しかない。焦る夏生をよそに、ヌシは「お地蔵さん、お留守番よろしく。テレビ見てていいからね」となぜかウィンクまでする。
「だめだ。電気代もったいないから消してくれ」
生の願いも虚しく、石の地蔵が表情を変えずに、テレビの方を向いてたたずんでいる。いつの間にかスイッチが入り、アナウンサーが食リポする楽し気な声が聞こえていた。
運転手とヌシと三人で事務所を出る。確かに路肩に黒塗りのタクシーが停まっていた。
ヌシが扉を開けさせ後部座席に座り込んだ。止むを得ず、夏生も続いて乗り込んだ。
「貴様の会社まで行ってくれ」
「は?」
「行き先は貴様の会社だ」
「ふざけないでください」運転手が怒り出す。
「別に貴様のことを訴えに行くわけではない。文句を言うだけならナンバーを控えて電話をすればすむ。私は貴様の会社に営業に行くのだ」
それだけ言うと、ヌシは腕を組んで目を閉じた。
(つづく)