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小説『ヌシと夏生』2_地蔵

地蔵

数人の子どもたちが大声で叫びながら、わら山に飛び込んでいる。
何度も、何度も。助走をつけて頭から飛び込む子もいれば、テレビ番組のヒーローのように飛び跳ねて、キックで突っ込んでいく子もいる。

「山崩しも年々、寂しくなってね。はいありがとうさん」

夏生が差し出した硬貨を前掛けのポケットに入れ、おばあさんが子どもたちの方を、あごでしゃくる。

赤と緑のチェック模様がずいぶんと色あせている。大きな氷の塊が浮かんだ水の中から、みかんジュースを取り出すとその前掛けで水滴をふき取った。

「はいはいどうぞ」

おばあさんのぶ厚い手から差し出された缶は、ひんやりと気持ちが良い。

「お兄さんは東京から?」

「ええまあ……」

四十をとっくに過ぎた自分に「お兄さん」とは少し戸惑うが、おばあさんくらいの人から見たら、おじさんもお兄さんも同じようなものなのかもしれない。

「でしょ?この辺の顔はみんな知ってるからね。顔を知らないってことはつまり、よそから来た人だ。でもこんな何にもないところに珍しいね。お仕事?この辺で昼間っから背広なんて着てる人はソーラーパネルだか売りつけるんだとか、蔵の中の物を買いに来ましたとかね。屋根の修理言って屋根瓦外してったりね。信用できないね。お兄さんは目がきれいだからそんなことないね?」

アハハと大きな口を開けて陽気に笑うおばあさんの口の奥の方に金歯が見えた。背広か……。ジャケットは羽織ってるけど、これのことか?

「違いますよ。仕事で本を作ってて」

「本作ってるの?すごいねえ。作家さん?何て名前なの?読んだことあるかしら?」

「いや、僕は編集で。僕自身が書いているわけじゃないんです」

「本作ってる人がこんなところに何しに来たの?」と尋ねておきながら「まあ、世の中にはいろんな仕事があるからねえ」と、興味なさそうに飲み物の入った水槽に手を入れて、くるくるとかき回した。

数時間前に夏生が降りた駅には、本当に何もなかった。
小さなロータリーと古めかしい自動販売機。そして、公衆便所。
別にわざわざ来る必要はなかった。原稿はすでにそろっているし、急いでどこかを回らなければならないというわけではない。ただ編集者として、物語の舞台となった土地の雰囲気を味わっておきたいというだけだ。会長、じゃなくて美津さんの元夫の世界を、少しでも感じてみたかったということだろうか。美津さんも「何にもないところよ?」と言いながらも、日帰りで出張を認めてくれた。

本当は美津さんも二年くらいは暮らしたという元夫の実家にも寄ってみようと思ったのだが、「ご家族に迷惑がかかると悪いから」という美津さんの意向で、実家には近づかないという約束をさせられてしまった。でも、家の前を通るくらいだったら問題ないだろう。お寺とか神社とか、意外と図書館とかに行ってみるのも面白いかもしれない。

しかし、タクシーに適当に案内してもらおうと、券売機の横に貼ってあったタクシー会社の番号に電話をして「おかけになった電話番号は現在使われておりません」というアナウンスが流れたとき、自分の甘さを呪った。

朝早く家を出てだいぶ腹も減ってきたが、見渡す限り、周囲には喫茶店一つない。スマホで検索してみても、一番近い飲食店まで数キロある。車の運転ができないのに田舎に来るのは、ある意味自殺行為かもしれない。

しかしこのまま、駅で次の電車を待っているのも時間がもったいない。とりあえず、駅前から線路と垂直に伸びる一本道を歩きはじめた。

どこを見ても田んぼが広がっている。田んぼがあるということは、人もどこかにはいるはずなのだが、歩いても歩いても誰一人出会わない。人の消えた村。次第に心細くなる。美津さんからの依頼がなければ、一生の間に一度も訪れなかっただろう場所だ。

今も電車の中で読み返してみたが、美津さんの元夫の遺した原稿は、よくまとまっている。だが、どこかまとまりすぎているきらいがある。もしかしたらここで生まれ、育った人にだけしかわからないニュアンスがあるのかもしれない。

いわゆる炉端話の類。話そのものは特に目を引くものではないのだが、よそ者である夏生には簡単には読み解けない、何か大切なものが隠されているような印象があった。一見、親し気に振る舞いながら、本当は他人をまるで寄せ付けない。

美津さんが辛い結婚生活を送ったというのも、わかる気がする。

(つづく)


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