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小説『ヌシと夏生』31_駕籠
年配の男性が訪ねてきた。
見たところ六十代後半か、もしくは七十代に差し掛かっているかもしれない。背は高いが細身で、穏やかな温かい雰囲気が漂っている。差し出された名刺を見ると代表取締役社長とある。
もう一人、男の後ろには女性が立っていた。名刺には「秘書」と書かれている。
社長がソファに腰を下ろすと「先だっては私どものドライバーがご迷惑をおかけしたとか。大変失礼いたしました」と深々と頭を下げた。「お口に合うかどうか」と菓子折りを差し出す。
夏生でも名前を聞いたことがあるような、老舗の和菓子店の名前が書かれている。「いえいえ」と口の中でごにょごにょと頭を下げながら、ヌシがすぐにも開けようと手を伸ばすのを目で制す。
「で、用向きは?」
菓子折りを開け損ねたヌシが、ソファの背もたれに寄りかかって不機嫌そうに尋ねる。
「謝罪が目的なら該当者二人も連れて来るはずだ。それをあえて秘書と二人だけで来たその理由は?おおかたあの課長とやらは社内の人間関係のもつれで異動と、そんな程度だろうが、本当は内密に何か相談したいことがあるのだろう?」
一瞬、社長は驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「先日お騒がせした者たちは、二名とも解雇いたしました。二人の今後の未来のためにも、詳しくは申しませんが問題行動を行っていたことが発覚しまして。私の不徳の致すところで……。なかなか現場のことにまで目が行き届かず、大変失礼いたしました」
「さすがは社長、謝罪慣れしてるな」
また菓子折りに手を出そうとして夏生に手をはたかれたヌシが、相手にも聞こえるようにつぶやく。しかし、言われた相手の方は平然とスルーしている。どこからどう見ても、ただの若い小娘にしか見えないヌシに、そんな嫌味を言われても平然と笑みを絶やさないのは、さすが「社長」だった。
「実は最近、不思議なことが起きるようになったというか……、社内で幽霊騒ぎが続いていまして。離職を希望する人も出始めました。そういった不可思議な問題を解決してくださる専門のお仕事をされているとか?どうか助けてください」
ソファに腰かけたまま、また深々と頭を下げる。
「これは甘いものだな?」手土産を早速開けようとするヌシをにらむが、もう効果はない。「せっかくだから遠慮なくいただこう」と、包みを割くとテーブルに置いた。
「おもたせで恐縮だが」と相手に進めながら、自分もひとつ手に取って食べ始める。「失礼だろ」とたしなめたが、老紳士も微笑んで手にしたので、夏生はコーヒーを淹れるため慌てて席を立った。今後は日本茶も用意しておこう。
キッチンから淹れたてのコーヒーを運ぶと、「やはり社長ともなると、この間の何とか言う課長とやらとはずいぶん違うな」と、ヌシはご満悦だった。
「その節は大変失礼いたしました」
乱暴な態度に冷や汗が出るが、ヌシの言う通り一代で大きな企業を創り上げた経営者の腰は、どこまでも低かった。
「しかしどうして貴様の会社のタクシーに乗りたがるのだろうな?」だいぶお腹が膨れたのか、ヌシは話し方も柔らかくなっていた。
「ご存じなのですか?」まだ何も話してないのにと、社長が真っ白なハンカチで汗を拭く。
「わかるだろう?普通」
「同じ業界の仲間にも声をかけてみたのですが特にそういった問題が起こっている様子はありませんでした。もしかしたら私どもドライバーにまた何か失礼があったのではないかと」
「失礼?」
「その何というか。幽霊というか?お亡くなりになられた方などに対して、何らかの粗相があったのかと……」
「死人を相手に、タクシーの運転手さんがどんな粗相ができます?」
「死んだ人という表現は適切ではないかもしれません。神仏というのでしょうか?例えば運転を誤って道端のお地蔵さんを倒してしまったとか。でもそうした事故についても調べてはみたのですが。しかしこれといったことはありませんでした」
ため息をつく。たかが幽霊騒ぎに大きな企業の社長が頭を抱えている姿は似つかわしくないというか。その姿を窓辺に立ってみているお地蔵さんがいるという光景は、なんとも奇妙で落ち着かない。
「そんなつまらないことはしないだろう」ヌシが口を開いた。「特定の会社を狙って仕返しをするなんて繊細なことを神だとか仏だとか呼ばれる輩はしないだろうな」
「どうして?」
夏生が口をはさむ。
「面倒くさい」
……即答だった。
「蚊に刺されてわざわざその血を吸った蚊だけを狙って仕返しをするか?」
「できるわけないだろ。違いなんてわからないから、近くにいればとりあえず叩き潰そうと思うくらいだ」
「そんなものだ。邪魔なのがそばにいれば潰す。それだけだ」
「人は蚊なのか?」
「蚊とは言ってない。虫けらと同じということだ」
なお悪い気がする。だがそんなものかもしれない。意外と、世の中は大雑把で、それは人だろうが神だろうが変わらないのだろう。
「どういうことでしょう?」社長が聞く。「なにか、もうお分かりなのですか?」
「別に」
「ヌシ。その口の悪さ何とかしろよ。失礼だろ」
思わず言ってしまった。まるっと大きな範囲でみたら、立場的には神であるヌシの方が一企業の経営者よりは上なのかもしれない。が、成功してなお腰の低いこの社長を少しは見習って欲しい。だがそんな夏生の話はまるで気にしてないようだ。
「ひどいことをされた仕返しだったらやった本人にその場で返す。そうでなければ近くにあるものすべてに対してだ。わざわざ相手を特定して何かをするなどと面倒なことをするほど神は暇じゃない」
「まあ忙しいだろうな。いろんな人の願いを聞いたり仕事はたくさんありそうだ」
「いや」
「ちがうの?」
「主に寝ている」
「お賽銭入れて願い事してるのに?それじゃあ詐欺じゃないか?」
(つづく)