小説『ヌシと夏生』22_テルテル坊主
「今のは寝相って言って、猫の寝相が悪いのが……。寝相は悪いけど悪気があるわけじゃなくて……」
しかし言い訳は通用しない。
テルテル坊主が夏生の顔めがけてまっすぐ飛んできた。
思わず目を閉じる。
ポフッ。
柔らかい衝撃がおでこにぶつかる。
「あれっ?」
ポフッ。ポフッ。繰り返し、夏生の顔めがけてテルテル坊主が体当たりを続ける。
痛くはない。顔は全然痛くないけれど、ぶつかっては床に落ちるテルテル坊主は、ティッシュでできている。破けてしまったら大変だ。
「やめろ。やめろって」
焦る夏生の顔に浮かんだ汗がテルテル坊主を汚す。高貴なテルテル坊主が、自分のせいでどんどん薄汚れ、傷ついていく。その姿を目の前で見続けなくてはいけないのは、体に受ける痛みと同じ。いや、それ以上に痛い。
「やめろ。お前が破けちゃうから」
急いで床に散らばったテルテル坊主を拾い上げ、ベッドに並べる。背中に軽い衝撃を繰り返し感じながら。
最後の一個を拾おうと手を伸ばした。白いテルテル坊主の横に、白いバッシュが見えた。白く長い指が、そのテルテル坊主を拾い上げる。顔を上げると、目の前にヌシがいた。
どこから取り出したのか、マジックを手に。今拾い上げた真っ白なテルテル坊主の顔の部分に三つの点を描いて、ふっと息を吹きかけた。
「むに」
点を描かれたそのテルテル坊主は可愛らしい声を上げ、ヌシの掌から浮かび上がった。
「は?」
驚いたのは夏生だけではなかったようだ。夏生に体当たりを繰り返していた気高いテルテル坊主も、その動きを止めた。
新しいテルテル坊主と、貴人のテルテル坊主が見つめあう。
二体のテルテル坊主は嬉しそうにくるくると部屋中を飛び回っている。ダンスを踊っているようだ。
静かな病室で繰り広げられる、静寂の舞。二体の動きが激しくなるにつれ、それまでただベッドの上に並べられていたテルテル坊主たちも揺れ始める。そして踊りが最高潮に達した瞬間、一斉に舞い上がった。
病室の中を聞こえない音楽に乗って、白いテルテル坊主たちが舞い踊る白い姿は圧巻だった。
「こりゃすごいな」
「きれい……」
いつか目を覚ましていた老人と猫も楽しげに、音のしないように気遣いながら手を叩く。ふいにさっと風が舞い込んできた。
病室の窓が開いている。空中を舞っていたテルテル坊主はふわっと動きを変える。曲が変わったかのようだ。そのままふわりふわりと窓の外に飛び出していった。静かな月明かりの中、晴れ渡った夜空に向かって高く高く舞い上がっていく。
「寒いから閉めるぞ」ヌシが窓を閉めた。
時計を見ても朝まではまだ時間がある。
「じゃあまあそういうことで。少し寝ようか」
明かりを消してそれぞれベッドに入る。
「お休みなさい」
「結局……」
仲間が欲しかったのだろうか。寂しかったのかもしれない。それのに、作っても作っても、ただの紙切れが山積みになるだけで、自分のように動いてはくれない。気高いテルテル坊主の心の中を思う。すぐ横から、ヌシの規則正しい呼吸が聞こえてくる。もう、寝ているのだろうか。
寝がえりを打って、ヌシに背を向けた。
今夜ヌシに会えたことを、あのテルテル坊主も本当に喜んでいるだろう。夜の空をどこに飛んで行ったのかは分からないが。またいつか、会えるかもしれない。
「あのテルテル坊主、どこから来たんだろうね?」
真っ暗な部屋の中で、猫が老人に声をかける。
「そうだね。君が持って来てくれたテルテル坊主に似ていたかもしれないな。お店のお客さんで大学生くらいの若い女性が、知り合いが入院してるって言ったらこんなの作ってくれたって」
「大事にこの棚の中にしまっておいたつもりだったんだが、すぐにどこかに消えてしまったんだ。どこに行ったのかな?」と淋しげ話し出した老人の言葉に、ただでさえ静かな病室が、さらにしんと静まる。
「えっと、それ、どういうことでしょうか?もう少し詳しくお話してくださいませんか?」
夏生が老人に声を掛ける。
「なんでも彼女の経営しているお店にはお地蔵さんがあって、お酒を注いで願い事を言うとかなえてくれるそうですよ。あなたは行かれたことはないですか?」
「あ、いや、その存じてはいますが……」
「そこにいらした若い女性のお客さんに、私が入院していることを話したそうなんです。そうしたらそのお客さん、子どもの頃に入院したことがあったらしくて。その時に看護師さんから聞いた、『病気がはやく治るおまじない』っていうのでテルテル坊主を作ってくれたそうなんですよ。私がはやく元気になって退院できますようにって、そのお店のお地蔵さんに願掛けしてくれてね。本当に心の優しい方がいるものなのですねえ。そういう親切な方々に囲まれて生きてる。私は本当に果報者ですねえ」
「良い話ですね」
嬉しそうに語る老人に、ヌシが相槌を打つ。
なんでそんな大事な話を、最初にしない?
「おい、テルテル坊主って一番最初にお前が持って来たんだって?」
老人のベッドの足元に丸くなって、眠そうな顔で目をこすっている化け猫に声をかける。
「うーんと……そうだっけ?忘れちゃった」
暗い病室の中、すぐに気持ちの良さそうな寝息が立ち始めた。
(つづく)