小説『ヌシと夏生』25_橋の姫
何も起きない。何もすることもない。コーヒーを片手に一往復、二往復……。
「そんなにすぐには出ないよな」
時計を見ると昼の二時を過ぎている。狭い橋の上をヌシと並んで歩いていたその時、後方から車の近づく音がした。
「危ない」
狭い橋の上、ヌシと二人欄干に体を寄せて道を空ける。引っ越し業者のマークが入ったトラックが、目の前を走りすぎる。橋が大きく揺れたその時、橋の向こう側に誰かが立っているような気がした。
一瞬だった。
そんなにきちんと見えたわけではないのに、艶やかな印象が残る。
「見えた?」
車が走り去るとすぐにヌシは道を渡り、橋の欄干から川面をのぞき込んでいた。
「いたな」
真っ黒な水面は、微動だにしない。
一旦、橋を離れて川べりの遊歩道を歩く。役所の立てた看板に、浄化活動の結果、魚が戻って来たという説明があった。昔は子どもたちが泳いで遊んでいたというが、真っ黒な水面にその面影はない。
「さて、これをどう理解するかだな」
「本人に聞けば良い」
「だから、その本人がいないだろ?一瞬しか見えなかった」
「待てばいい」
確かに待つしかないのだが、せっかくの休日を、お化けを待つだけに使いたくはない。ふと、芝生の上に女の子が立っているのが見えた。夏生の視線に気が付くと、決心したような顔になって、まっすぐと歩み寄ってくる。
「もしかして、見えるんですか?」
女の子が夏生とヌシに平等に視線を向ける。
「今ちょっと見えたような気がして。……っていうか、何のこと?」
「女の人がいるの、見えます?」
小学校……三年とか四年とかくらいか?ちょっと緊張した目が、ヌシと夏生の顔を交互に見る。
「いや。なんていうかちょうど、そこの橋の上に誰かがいたような感じがしたんだけど。見たら誰もいないし。見間違いかな?別に人がいたってねえ?普通のことだし。ほら。おじさんだっているし。女の人が立っていたって別に問題はないんだけど……。何だか自分でも何言ってるんだかわからなくなってきた」
隣のヌシに助けを求める。
「ちょうどこのおじさんと誰かいたようだったけど、見ると誰もいないから、不思議だねって言ってたところだ」
ヌシが夏生の後を継いで説明する。
「着物を着た女の人が怖い顔して立ってます」
彼女が指を指そうとするのをヌシがそっと制する。夏生には何も見えない。
「見える?」
夏生は恐るおそる、ヌシに聞く。しかしヌシも「見えない」と首を振る。
「うーん。じゃあどの辺に見えているのか、おじさんを連れてってくれない」
「近づくの怖いけど」
「大丈夫。おじさんはただのおじさんだけど。このお姉さんは強いから」
夏生の言葉に、少女は不審そうな顔でヌシを見上げる。「ふん」と鼻を鳴らし、ヌシが少女に手を差し出した。そのひと差し指をそっとつかむと、少女は初めてにっこりと笑った。
「行こう」
ヌシの手を引いて少女が歩き始める。橋と言っても短い、小さな橋だ。さっき、夏生とヌシが川面をのぞき込んだ橋の真中あたりを越え、橋のたもとの辺りまで来た時、少女が立ち止まった。
「ここ」
「ありがとう」
ヌシがうなずくと少女もまだ緊張した趣でうなずいた。おそらく、と夏生は思う。少女にとっては、ヌシに信じてもらえたことが嬉しいのだろう。それまできっと、幾人かの人には自分の目で見たことを伝えたはずだ。
だが、伝えた相手はあいにく、同じものを見ることはできなかったのだろう。伝えることはできなかった。それがヌシは、初めて会ったにもかかわらず、「見える」と嘘をつくわけでもなく。「見えない」と言いながらも信じてはくれた。その安心感だ。
「今も立ってる?」
ヌシの言葉に、少女はややこわばった顔で、コクンと深くうなずいた。
「どんな顔してる?」
「にらんでる」
「そう。私たちのことを見てる?」
「ううん。もっとあっちの方」
少女は振り返ると、タワーマンションを指さした。タワーマンションに何かあるというのだろうか?
「話しかけてみたら?」と夏生が言うと「それはやめた方が良い」というヌシの強い言い方に、少女はどきっとした顔をした。