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小説『ヌシと夏生』33_駕籠

時計は午前零時を回ったところだった。

ニコニコタクシーの代表に相談し、最初に夏生の部屋にクレームを言いに来た運転手が車を出してくれることになった。

研修中の新米運転手が走る際に、教官が同席することはあるらしい。そのため助手席に誰か乗っていても問題はないらしい。しかし、今回教官役として、助手席に座るのは、夏生ではなくヌシだった。まるで教官らしからぬ風貌だが、ニコニコタクシーの制服を着ると、それらしく見えるから不思議だ。

刀根山霊園の前の大きな桜の木の下に車を止め、客が来るのを待つ。
夏生は、タクシーの前に立っている。

「良い恰好だな。車夫の恰好をすると、それらしく見えるから不思議だ」
ヌシがタクシーの窓から顔を出して嬉しそうに笑っている。

「うるさい。早く車に乗ってろ」

人力車で幽霊を運ぶおとり作成を考えたまでは良かったが、人力車を貸し出している会社が見当たらず、うっかり会長の美津さんに相談したのが失敗だった。

幽霊捕獲作戦にえらく興味を示した美津さんは、すぐさま知り合いの観光関連の業界団体に連絡し、人力車と車夫の服装ほか一式をすぐに整えてしまった。ニコニコタクシーに同乗できることがわかって、人力車は返そうとしたところ、「タクシーにはヌシちゃんに乗ってもらえば良いじゃない?夏生さんは絶対人力車が似合ってるわ」と、返却を認めてくれない。ある意味、パワハラと思いつつ、夏生も人力車を引くことになった。

この場所で人力車を引くには、営業許可を取る必要があるのかどうか、不安はあったが、その辺も美津さんが根回しをしたらしい。「心置きなく車を引いてらっしゃい」と励まされてしまい、逃げ場が完全になくなってしまった。

「夏生」

振り向くとヌシがタクシーの助手席からまた顔を出している。

「どうした?」

「私がいると神々しくて、幽霊も寄って来られないだろう。うら若い乙女が夜遅く出歩いているのもよろしくないから、先に帰ることにした。あとは頼んだ」

「じゃあ、俺が助手席乗ればいいのかな?人力車はどうしよう。置いといて平気かな?」

夏生が言うと、運転手がすかさず「いくら研修中という設定でも、さすがにその衣装で助手席に座る人はいません。私はヌシさんをお送りして、通常の勤務に戻ります。あとはよろしくお願いします」と有無を言わさず、走り去ってしまった。

午前一時三十分。スマホでニュースを見たり、小説を読みながら時間をつぶす。

ヌシは家で寝ているだろう。お地蔵さんももう、猫の店でのアルバイトは終えて家にいるだろう。

桜の木の下で一人立っていると、馬鹿々々しくなってくる。

まるで様になっていない車夫姿は、滑稽としか言いようがない。人力車を引くからと言って、わざわざ着替える必要などなかったのではないだろうか?確かに歩きやすいのかもしれないが、半分は観光客を喜ばせるための衣装だ。しかも、薄いので夜は冷える。

「どんな客が来ても乗車拒否はしないことだな。幽霊じゃなければ、運賃はもらえるわけだし。案外良い副業になるかもしれん。運動もできて一石二鳥じゃないか」

そんなヌシの去り際の言葉が蘇る。奇特な酔っ払いにチップをもらえたら嬉しい。真夜中の墓地で人力車に乗りたいなんて、まともな感覚の人ではあるまいが、その分金銭感覚もきっとどこかずれているに違いない。そんな淡い期待を抱いていたことは確かだ。しかし、現実は甘くはない。罰ゲームをやらされているような気分になる。

「この様子だと、今夜は出ないな」

そろそろ帰ろう。そうそう簡単に出るものでもないだろうとも思うが、これだけ待って何の成果もないというのも悔しい。せめて一周くらい墓地を回ってみようと梶棒を握った。

人力車は、走り出すと意外と軽い。車幅があるので普通に歩く感覚でいるとぶつけてしまいそうだが、誰かを乗せて走ったら案外、楽しいかもしれない。試しにヌシを乗せて走ってみよう。間違いなく喜びそうだ。
ふと、街灯の下に黒い人影が見えた。

手を挙げている。
……客だ。

一瞬、背中にぞわっと寒気が走った。

夏生が止まると、すぐに乗り込んできた。この時代、夜中に人力車が走っていることに違和感を覚えないのだろうか?あまりにも自然すぎるその態度に、薄気味の悪さを感じる。

「寒いでしょうから。シートの毛布を膝にかけてお使いください」

女性が座るのを確認して声をかけた。

「……まで」

告げられた行く先は、夏生の住んでいる町だった。
肩まで伸びた髪。黒いコート姿。違和感はない。薄暗い灯りの下、顔ははっきり見えなかったが、どこか懐かしい気がする。

「人力なんで、若干お時間かかりますがよろしいですか?」

返事はない。ざっと見積もって何時間くらいかかるだろう?そもそも、徒歩でもたどり着けるだろうか怪しいのに、車を引いて行けるだろうか?
時計はそろそろ午前二時を回ろうとしている。

梶棒をしっかり握ると、夏生は歩きだした。空の車を引いている時より、若干、重さは増している気がする。

人通りはほとんどない。車道をゆっくりと進む人力車を、時折ヘッドライトが追い越していく程度だ。もしも誰かが乗ったら、コミュニケーションを取りながら正体を暴いてやろうと考えていたが、いざ客を乗せてみると意外と話すことがない。でも、きっとどこかで会ったことがあるような気がする。頭に靄がかかっているようで大切な何かを思い出せない。

どのくらい歩いただろうか?時計を見ると、すでに十五分ほど経過している。

「今日は冷えますね……」

「……」

返事はないが、梶棒の横に取り付けられたミラーを見ると、女は消えずにシートに座っている。急に軽くなるなんてことも、まだない。そもそもそんなに重くない。

被害にあった運転手たちの話では、消えるのは目的地に近づいてから。まだ時間の余裕はあるだろう。何しろ人力車の歩みは、普通のタクシーに比べたら格段に遅いのだから。

生まれたばかりの赤ん坊のような泣き声がする。あれから十年経っただろうか。日々の生活に追われて時間の感覚がなくなっていく。

「好きな人がいるってどういうこと?」せせら笑う元嫁に尋ねながら、自分の感情がどんどん白けていくのが分かる。

はっ、はっ、ふっ、ふっ……。

呼吸と足がリズミカルな音を立てて、軽快に進む。気が付いたら駆け足になっている。

どうして今、思い出すんだろう。真っ白な顔。自分の妻ではなく、生まれたばかりの女の子の母親。じゃあこの子の父親は?吐きたい。冷汗が出て、動悸が激しくなる。後ろに乗っているのは誰だ?あいつか?怒りがこみあげる。

右、左、右、左……。

足が自分の足ではないみたいにどんどん駆け足で進んでいく。なぜ追い立てられているんだろう?どこで何をしている。なんであいつが俺の後ろにいる?気持ちの悪い感覚が、どんどん重苦しくのしかかってくる。

先の方に大通りが見えた。

人気のない真夜中の道を、大きなトラックが行き来している。
止まらないと危ないかもしれない。そうは思っても、足は勝手に動いて止まらない。自分の足ではないみたいだ。このままあの通りに突っ込んでいくのかな?どんどんスピードが上がっていく。気持ちがいい。トラックの行きかう音が心地いい。

「止まれ」

突然、脳の中で声がしたと思うと、足が急に動かなくなった。勢いがついていて前につんのめって転びそうになる。

目の前に光る街灯の白い灯りの下に、真っ白な少女が立っていた。
ピンクのスカジャンを肩に羽織って、赤いバスケットシューズが見える。

ヌシだ。

「向きを変えろ」

また声がする。
道幅が狭いので梶棒を両脇のブロック塀にこすらないようにしなければ。
慎重にゆっくりと向きを変えると、目の前にお地蔵さんが立っていた。

「そろそろ来る頃かと思ってな。お地蔵さんもバイトが終わって暇そうだったし。迎えに来てやったぞ」

ヌシが梶棒をくぐって座席に入ってくる。

「さあ、そこに座るのは私だ。邪魔だからどけ」

墓地で乗せた女性の首を右手で掴むと、ぎゅっと握りしめた。

「何をしてるんだ、やめろよ」

夏生がヌシの手にとびかかる。

「君もなかなか面白いな。せっかく神様が直々に命を救ってやっているんだ。静かに見ているが良い」

空いている方の手で、ヌシに髪を掴まれて、身動きが取れなくなった。
ヌシに首を締めあげられて苦し気にもがきながら、女の輪郭が崩れはじめた。

顔がだんだんと赤黒くなっていく。依頼主であるタクシー会社の社長と一緒に来た秘書が人力車のシートでヌシに首を抑えられている。

さらに身もだえしながら、気が付くと最初にタクシー料金を請求しに、夏生たちの部屋に来た運転手になっていた。苦悶にうめく顔が横に広がる。運転手はいつか、忘れたくても忘れられない顔になった。憎々しげに笑っている。

ぱきっという軽い音を立てて、何かがつぶれた。

「こんなもんかな?」

我に返った夏生に、掌の中のものを差し出す。
ヌシの真っ白な手の中で、小さな象牙色の破片が二つ、輝いていた。

「私の大事な君の命を取ろうとしたのだから、粉々にしてやりたいところだが。証拠として出さないとお金が請求できないからな。ほれ」

「歯?」

手渡された破片を掌でそろえると一本の犬歯になった。歯の中央には、黒く模様のように何かが書かれている。しかし顔を近づけて目を凝らしてみても判読できなかった。ただどこまでも悲しく冷たい憎しみだけが伝わってくる。

「どうした?泣いているのか?」

「別に」

「どんなにひどい体験でも、少しずつ思い出すことで自分の現在の姿に都合が良い様に記憶をつくり変えることもできるが、一気に思い出してしまうとなかなか、対処できない場合もある。人間にとってはかわいそうなことなのだが、今回のように、そういうことをするのが好きな輩もいるということだ」

「……妖怪か何かの仕業?」

「ある意味、神に近いかもな。妖も妖で進化を続けているから。昔話で『サトリ』という妖について聞いたことはないか?人の心を読むというアレだ。まあ、表面に現れている心を読まれる分には愛嬌で済むが、心の奥深いところまで無理やり引き出すと、危険もあるわな」

「危険?」

「……大きな視点で見れば、人が一人崩壊したところで大したことはない。今、この瞬間にだってたくさんの命が人間の尺度で考えれば理不尽な死を迎えているのだから。そんなのにいちいち対処してたらこちらの身が持たない。だがこいつは私たちに対して悪意を持っていた。神としては例え相手がどんなものであっても命を絶つのは不本意なのだが、仕方がない。私の大切な人の命を守るためだ」

うつむき加減のヌシの横顔は少し照れくさそうに微笑んで見える。鼻の
頭にしわを寄せて。

「ありがとう」

夏生が頭を下げた。

「さてさて、はやくシャワーでも浴びて穢れを払いたいものよな」
シートにヌシとお地蔵さんが乗り込んでいた。

「家まで頼む。大急ぎでな」

梶棒を握る。ずっしりとした重さが、伝わってきた。
仕方がない、恩にはきちんと報いよう。

「お客さん、しっかりつかまっててくださいよ」

寒空の下、腹の底に力を入れて、えいやっと右足から歩き始めた。

駕籠
駕籠に乗る妖はここだけでなく、都会にもあると聞く。時代とともに駕籠から人力車、そして車へと、人の移動手段が変わってもそれに乗りたがる妖がいることは変わらない。プライベートな空間がそのまま移動することは、異界の民にとっても心地よいのかもしれない。ただ、駕籠を利用する妖の正体はわからない。

美津さんの元夫の手記より

(つづく)

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