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小説『ヌシと夏生』9_ろくろ首

返す言葉はない。まだ会社に籍を置いているとはいえ、完全な窓際だ。直属の上司である美津さんに拾ってもらったおかげで、それこそ首の皮一枚で何とかつながってはいるものの、その立場は非常に弱く、危うい。もし再就職なんてことになったら、こんな中年、雇ってくれるところはあるのだろうか?

明日の生活の保障もないのに、ヌシの食費や生活費と、出費は先月より増えている。やはり金は一円でも欲しい。

だが……、いくら非現実的な依頼だからと言って、何もせずにそのまま懐に入れるわけにはいかないだろう。

「会社に行っても大した仕事もないだろうし。暇だろう?」

金を受け取ってしまったら、もちろん責任が発生する。
だから配偶者の首が伸びるかどうかまでは確認しよう。だが確認してしまったら?

夏生やヌシはそれでいいかもしれない。しかし、その後の男とその配偶者、この二人はどうなるのだろう?その結果が分かりすぎていることが、夏生の気持ちを重くした。

「まあ、夫婦関係なんてどちらか一方でも疑いを抱いてしまった時点で、ある意味終わりは始まっているようなものだ」

ヌシが悟ったようなことをいう。今回の男の場合、きちんと自分の目で確かめてから判断しようとするだけ、ましなのかもしれない。

「皆、知りたがりだからな」

ヌシが空を見上げるのにつられて、夏生も空を見た。雲一つない空は、やはり高い。

◇◇◇

何ら解決の方法も見つけることができないまま、時間だけが過ぎる。一回会ってみて、駄目だったらもう、謝ってお金を返すしかないと腹を括った。

約束の日の夕刻。「地震とかで電気止まったらどうすんだろな」と、エレベーターで上がりながら、夏生は心配になる。タワーマンションの最上階の暮らしというのはどういうものなのだろうか。風で揺れたらと考えただけで酔いそうだ。だがヌシはまるで動じない。むしろ高いところは好きそうだ。なんとなく、生き生きとしている。

「学生の頃、エレベーターの運転っていうのかな?エレベーターにお客さんと一緒に乗るバイトやったことがあったんだ」

「うん」

「エレベーターはガラス張りで外が見えて。下の方にお寺の青い屋根が見えてさ」

「うん」

「その緑青のふいた屋根を上から見ていたら怖くなって。もし、地震とか起きてエレベーターが止まっちゃったらどうしようって」

「うん」

「一日でバイト、辞めた」

「そう」

「まだ給料もらってないんだ。もう二十年前?いや、それ以上か?とっくに時効だな。まあ初日だったし。むしろ迷惑かけただけなのが心苦しくて……」

エレベーターで思い出した昔話をなんとなくヌシに話しているうちに、男の家に着いた。玄関を開けた女性は、夏生とヌシを見るとにっこりと笑って、「どうぞ」と中に招き入れた。広々とした窓の外はもう暗い夜が広がっている。夏生が一日で辞めた、かつてのバイト先のタワーがライトアップして見えた。

「はじめまして」

出迎えてくれた件の奥さんは、物腰が柔らかかった。上品で、きれいで、優しそうだ。

「いつも主人がお世話になっております」

屈託なく笑う奥さんの顔を見て、夏生は返答に迷った。

「こちらこそ。ご主人にはいつもよくしていただいて……」

ハハハと笑いあう夫婦が不思議でならない。

片方は妻が人間ではなく、妖怪か何かの類ではないかと疑っている。もう片方は、この様子ではそんな風に疑われていることなど、思ってもないだろう。なんとも切ない。夏生には理解ができない。さりげなく隣に腰かけたヌシの顔を見るが、特に変化はない。

「不思議な事件専門の探偵さんってどんな方なのかしらと思っていたら。ずいぶん細身なのね」と奥さんが微笑む。

痩せているのは貧しくて、ろくなものを食べてないから、というよりは体質か。窓際で大した仕事もしていないけれど人が独り暮らせるくらいの賃金はもらっている。でも、確かに裕福ではない……。

そんなことより「不思議な事件専門の探偵」とは、一体どういう説明をしたのだろう?男性の顔を見るがニコニコと笑っているだけで、何も読み取れない。奥さんは自分が夫からお化けか何かだと思われていることに気が付いているのだろうか?

そもそも、探偵でも何でもないし。

「そちらのお嬢さんもとってもおきれいね。妖怪退治なんて、何でそんなお仕事を?」

今回、ここに来た理由についてどこまで知っているのかわからないけれど、そんな仕事、してないんだって。

こっちは美津さんに頼まれて話を聞いただけだし。あんたの夫が勝手に勘違いして依頼してきただけだ。ついでに言ったら、隣にいるヌシこそ妖怪みたいなものだし。

そんな夏生の思いにはお構いなしに、奥さんは「お嬢さんはお酒は大丈夫?」とグラスにシャンパンを注ぐ。

「ああ」と注がれたシャンパンを一息に飲み干した後、「おいしい!」とヌシの顔が輝いた。よほど気に入ったようで、そのあと一人でシャンパンを飲んでいた。

さすがというか、セレブな夫婦だけあって、楽しい食事のひと時だった。他人をもてなすのに慣れているというのか。夏生自身、ここの主人とは本当に昔からの友人だったかのような錯覚を覚えたほどだ。

ゆっくりとした食事が終わったころにはもう、夜も更けていた。

しかし、肝心の「奥さんの首の伸びること」については何の収穫もない。焦り始める夏生の横でヌシが嬉しそうにシフォンケーキに生クリームをたっぷり塗ってほおばっている。その神経がうらやましすぎる。

「奥様が焼いたんですか?」

夏生の問いに「恥ずかしいわ」と笑う。

「お料理が上手で良いですね」

「ありがとう。でもこの人は甘いものはあまり好きじゃないの」

奥さんが男を見るまなざしは温かい。

「そんなことないよ。あまり食べないのはそっちだろ?体形がどうのこうの言って」

「まあ。女性が体形を気にするのは当たり前じゃない。お嬢さんもそう思わない?」

「そういうものだろうかな?」と返事はしているが、たぶんヌシはそんなこと気にしないだろう。

「でも嬉しいわ。たくさん召し上がってね」

ヌシに紅茶を注ぐが、もう一つのグラスには日本酒も注ぐ。なかなか珍しい組み合わせだが、ヌシはもちろん、ホスト夫妻も嬉しそうだ。

「本当に食べないの?」不思議そうに女を見るヌシに「作ってると、それだけでお腹がいっぱいになっちゃうの。召し上がって」と笑う。女の言葉に、「そうか」とヌシが、再び皿に手を伸ばした。一体、どのくらい食べるのだろう。それはそれで興味がある。

しばらくすると「眠くなった」と、ヌシが大きなあくびをし始めた。ソファに座ったまま、今にも眠りそうになる。こいつは何を考えているのだろう?神様がこんなもんだとしたら、これまでの人生、ずいぶん無駄に手を合わせてきたような気がする。食べたら眠る。ある意味動物の正しい姿なのかもしれないが。

「良かったら少し横になる?」

「そこまで甘えるわけには……」とヌシの代わりに断ろうとしたとき、ヌシがあくび交じりに言い放った。

「眠くなったから早く首伸ばしてくれ」

一瞬にしてその場が凍り付いた。

「お前、何を一体?」ヌシの頭を小突くと「すみません。なんかもう酔っぱらっちゃったみたいで。寝ぼけてんだか何だか……。

「大丈夫か?そろそろ帰るか?」

「いや。眠いから寝る」

「……じゃあタクシーで帰ろう。あ、じゃあすみません。失礼しました」

そそくさと立ち上がる夏生を無視して、「ゲストルームにご案内しますね」と、女が立ち上がった。

「さあどうぞ。こちらでゆっくりお休みになって」

奥さんの言葉に、ヌシの方は何の遠慮もなくついていく。

「もう遅いですから……。ヌシ。お暇しよう」という夏生に、「最初から今日はお泊りいただくつもりだったんですから。遠慮なさらないで」と、そのままヌシと連れ立って部屋を出て行った。

(つづく)

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