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小説『ヌシと夏生』35_付喪神
「では早速ですが、実地調査のため、今夜この部屋でオールします!」
ヌシの元気な宣言とともに、商談は終了した。
準備のためと、一旦店を出る。二人を送りに出た若手経営者に「もちろん今夜は歌い放題、飲み食い放題です」と言われ、ご機嫌なヌシは鼻歌を歌っている。
「もうやめてくれ。いつも危険な目に合うのは俺なんだ。怖いし危ないのは嫌だ」という夏生の訴えは無視され、「食べ放題だから夕食代も浮いたし、良かったな。ありがとうは?」と逆に感謝を強要される始末だ。嫌な予感しかしない。
とりあえず、話の内容を美津さんに電話で伝えると、美津さんも「楽しそうね。私も少しお邪魔しようかしら?」というので、「もしお時間があれば。ヌシも喜ぶと思います」と言っておいた。そういえば昔、会社の忘年会か何かで歌を歌っている姿を見たことはある。昭和のフォークソングだったか、演歌だったかを熱唱していたような気がする。
夜の八時に歌い始めて、二時間ほどたっただろうか。
ヌシの歌は、特別上手というわけではなかったが、聞いていて心地良い。音程は多少曲とずれることがあるとはいえ、初めてのカラオケで、しかも聞いたことがないような曲を歌いきるのだから器用なものだ。
何より声が澄んでいる。
薄暗い照明の中でタンバリンを叩きながら、ただただ感心する。夏生が人気ランキングに上がっている歌を片端から入れるのを、文句も言わずにひたすら歌っているのだが、その歌っている全身から喜びが伝わってくる。そんな姿を見ていると、年齢はわからないが少なくとも見た目は親子ほどもかけ離れたヌシを可愛らしく思えてくるから不思議だ。
「あまり歌い続けてると喉を痛めないか?何か飲み物頼むけど、ヌシは?」
ビールくらい飲みたい気もするが、一応、仕事中だ。自制してウーロン茶を二杯注文した。
「ウーロン茶頼んどいたけど。もしほかのが良かったら自分で選んで」
ちょうど歌っていた曲が終わり近づいたので、声を掛けた。
聞こえないのか、ヌシは余韻に浸って微動だにしない。
「次は、恋の歌が良いな。恋を歌った歌を、入れてくれ」
「恋の歌って、世の中の歌のほとんどが恋の歌だよ。たぶんだけれど」
「熱い恋の歌が良い」
そんなの俺が知るわけないだろ?と心の中で毒づきながら、少ない知識を総動員して数十年前に流行した曲のタイトルの断片を思い出す。検索すると同じタイトルの歌がたくさん並んでいるので、面倒くさくなって一番上の歌を予約した。
またイントロが流れる。
ヌシがマイクを手に、モニターの前に立って、歌い始める。全身から伝わってくるような切ない気持ちが部屋中を包む。黒い髪が照明に輝き、揺れる。歌の中の世界に吸い込まれそうになる。体が消えて無くなるような、言いようのない不安に恐ろしくなる。自分が消えて、空いた自分の中に何かが入ってこようとする。誰だろう?若々しく、荒々しい。気分が高揚してるのでもない。全く別の人格が襲ってくる。
何かがおかしい……。
まだ自分が自分をコントロールできるうちに、止めないと、大変なことが起こりそうな、気がする
「ヌシ、少し休憩するぞ」
夏生はリモコンを取って演奏を止めると、ヌシの動きも止まった。
部屋の中の音が一瞬消えて、陽気な曲紹介のDJが入る。
「どうした?」
振り向いたヌシの雰囲気が普段と違う……。
この女の人は、本当にヌシなのだろうか。瞳に夏生の顔が写っているのが嫌にはっきりと見える。もともとそんなに視力は良くない上に、最近は老眼まで入り始めたのに、どうしてヌシの瞳がこんなにはっきり映るんだ?自分の心臓の音が頭に響くような気がして、呼吸が浅くなる。
抱き締めたい。
違うだろ。
ダメだって。
抱き締めたい。
だから娘みたいなもんだって、歳が違い過ぎる。抱き締めたい……。
止めろ……でも一度だけ、ぎゅっとするだけ……。
抱きしめたらどうなる?
今までの関係が崩れる?今までの関係ってなんだ?違う、そんなことじゃないだろ。まずい……抱きしめたい……。
「ウーロン茶二つ、待たせしました」
突然、カラオケ店の店員が入ってきて、緊張が解けた。
こちらには一度も目を合わせずにテーブルにウーロン茶を二つ並べて、「ごゆっくりどうぞ」と出ていくまでに、理性を取り戻すことができた。危なかった。もし一瞬でもヌシが視線をそらしていたら、後先のことも考えられずにやらかしてしまっていただろう。もちろん公共の場だから最後までやることはないにしても。
「少し……休んだら」
自分の声が上ずっている気もして、恥ずかしいが、とにかく取り繕った。
「危なかったな」
そう言ったヌシは、いつものヌシだった。
「ああ、何かおかしい」
「いや、私の美貌に対する正常な反応だろう。むしろ今まで欲情しなかった君の方がおかしい」
からかっているのだろうか。真意はわからないが、とりあえず自分を抑制できて良かった。胸をなでおろした。
「さて、どうしたものかな」
とはいえ、歌の途切れたカラオケルームに二人でいるのは気恥ずかしい。「顔でも洗って来よう」と手洗いに立った。
(つづく)