小説『ヌシと夏生』27_橋の姫
「橋が壊れそうです」
これでもう何回目になるだろう。
匿名で役所に電話を掛ける。が、反応はいつもと同じ。この部署ではない。ここではない。
当者がいない。きちんと基準を満たしているから問題ない。結局、誰も動きそうになかった。
川沿いの桜並木に艶やかなピンクと青のイルミネーションが輝いているが、人通りはない。立ち並ぶタワーマンションの窓からも、夏生が見る限り灯りは漏れていない。
「奴は消えるかもしれない」
橋のたもとに立ったヌシは抑揚のない声で言った。
もしかしたらほかにもっと良い方法があるのかもしれない。だが、夢の中の少女の話を信じるのならば、もう時間はない。「きっと、それでも良いから、頼むのだと思う」と頭を下げた。橋を守るために命を捧げ、橋を守るためにこの世に残っている橋姫だ。橋を守って消えていくのであれば、本望だろう。
もっと言ってしまうのであれば、彼女はこの世に残りたくて残っているわけではない、とも思う。不幸にも無理矢理与えられてしまった役目を、忠実に果たしているに過ぎない。そんな彼女の邪気のない生真面目さが、哀れにも感じられる。
手に息を吹きかけて温めている夏生の前で、ヌシがお気に入りのスカジャンを脱いだ。
「冷えるな」
「寒いって感覚あるんだ?」驚く夏生にヌシが鼻を鳴らす。
「奴は?」
「奴?ああ、彼女か。昨日夢の中で橋を壊すことを伝えたら、ほっとした顔をしていた」
「そうか……」
ヌシが赤いバスケットシューズを脱ぐ。まだ明かりをともしている街灯の白い光の下。真っ白な足につい目がいってしまう。指が長い。
「靴は良い。暖かい。でも脱いだ時にひやりとするのも良いな」
白いワンピースがするりとアスファルトの上に落ちた。
一筋の白い風が暗い空に伸びた。高く。高く。そして橋の真中に、音もなく、まっすぐに降りる。
川の上を真っ白な風が舞った。
「はやく服を着てくれよ。人が出てくる」
「嬉しかろう?」
塗れた長い髪を絞って、真っ白な肌を素早く白いワンピースに包んでいく。
橋が落ちた向こう岸にたたずむ花嫁姿の橋姫が、にっこりとほほ笑んだ。
明るく晴れやかな顔。夏生が夢の中で見た、まだ橋の土台の下に埋められる未来を知らなかった頃の少女の顔だ。
「人の造るものはもろいな。こんなに簡単に落ちるなんて」
ヌシが鼻にしわを寄せる。
橋姫が立っていた橋のたもとには、もう誰もいない。
どこに行ってしまうのか見当もつかないが、どうか幸せでいて欲しいと、夏生は心の中で願った。
タワーマンションの建設と合わせて、古い橋を取り壊してきれいに掛け直されたその橋は、一部ずさんな工事もあったようだとうわさされた。人通りの絶えた未明に壊れたからまだ良かったものの、日中であれば大きな事故につながる恐れもあったと。
「工事がずさんだったのは本当だったみたいだけど、すべてが下請け業者の責任とかで全部片付けられたら、それはそれで可哀そうかも」
工事をした会社の責任はもちろんあるだろうが、ほかにも関係した人たちはもっとたくさんいるだろうに。夏生の心配に、ヌシは「まあ人の世では仕方ないだろうな」と笑った。
人の世を去った時、また異なる裁きがあるのだろうか?
そんな夏生の不安を見透かしたかのように、ヌシと並んでテレビを見ているお地蔵さんが笑ったように見えた。そういえば、お地蔵さんは閻魔さまの化身と言われていたっけ?
橋の崩落はタワーマンションの売れ行きにも多少の影響はあったようだが、新しい橋はすぐに掛けられ、事故はすぐに忘れ去られた。
新しい橋のたもとにはもう、誰もいない。
(つづく)