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小説『ヌシと夏生』26_橋の姫

「もしも何か、かなわない願いがあって現れているのなら、助けを求めるだろう。人は自分の存在に気が付いてくれる相手にすがるものだ。もしかして、すでに話しかけているのか?」

女の子がヌシの顔を見上げ、おそるおそる頷いた。

「話しかけた後は、話しかける前よりその存在がはっきり見えるようになったのではないか?」

少女は戸惑ったような顔で、もう一回、うなづいた。
ヌシの顔が険しくなった。

「お前はしばらく、この橋には近づかない方が良い」

別れ際、ヌシは腰をかがめ、少女の顔をのぞき込むようにして言うと、自分の髪の毛を一本抜いて少女の手首に巻いた。

「これなに?」

「おまじないだ」

手首を両手で包み込むようにして何か口の中でつぶやくと、ふっと息を吹きかけた。しっかりと結んでいたように見えた髪の毛は、はらりとほどけた。

「さあもう大丈夫だ」

その髪の毛をしっかりと握りしめて「じゃあな」とヌシは立ち上がった。
「気を付けて帰ってね」夏生も別れを告げる。
小走りで去っていく女の子を見送ると、ヌシはもう、橋を渡っていた。女の人が見えるという辺りで、手招きしている。

「どうするの?」

「手を」

夏生の左手の手首にさっきの髪の毛をまくと、ふっと息をかけた。

「あれ?」

目の前に着物姿の女の人が立っていた。
真っ白い着物を着て頭には角隠しというのだろうか?をかぶっている。唇の紅が際立っている。きれいだ。
黒い瞳が夏生の目を捉えた。
体中の力が抜け、大きな流れに漂うような心細さが全身を包む。

「哀れな」

ヌシの優しい声が耳元に聞こえる。
川と結ばれ、橋を守る役目を与えられた橋姫よ……。
暗いトンネルの中に引き込まれるように意識がもうろうとしてくる。

「夢の中で怖い顔の女の人に会ったの」

女の子の声がする。体が言うことをきかない。腕の肩から先が糸が切れたように動かない。

「大丈夫……。俺とヌシがいるから、怖がる必要はない……」口を動かしても喉が震えない。

「橋に近づくな」

声にならない声だけが夏生の頭の中に響く。
お気に入りのスカジャンを肩にかけたヌシが立っているのが見える。橋?

「どのくらいもつかのう……」

なぜ笑っている?
……何かが違う。
途端、体中にぐっと押し付けられるように重さがのしかかる。ヌシの顔がいつしか広がる。濡れた髪がべっとりと顔を覆い息を、ふさいでくる。真っ黒な髪の隙間に見える顔が笑っている。
遠のく意識の中で、きれいな川の流れが映る。
体が重い。

やめて。せっかくきれいな着物なのに。どうして袂に石を入れるの?
体中が縄で巻かれている。屈強な何人もの男が動けない体を担いで川の中に放り投げる。
冷たい。怖い……。
何を恨んでいるの?
首を振ってる?
じゃあ、私のこと嫌いじゃないの?
じゃあどうして?
ふいに、大きな音とともに橋が砕けて川に落ちていく。

「目が覚めたか?」

気が付くとヌシの膝の上に頭を乗せ、ソファに横になっていた。
床にお地蔵さんが倒れている。
一つ間違えば石の塊で頭を割られていた?
ちがう。たぶん、お地蔵さんが助けてくれたんだ。

「ありがとう」いつもは何かと気の合わない相手だが、今は素直に言葉が出た。

「どうやって家に?」

「タクシーに乗った」

タクシー代がいくらかかったのか心配になる。しかし今、得意気なヌシに尋ねるのははばかられた。

「ありがとう」

それだけ言って、再び目を閉じる。
神様の膝は温かい。心地よい闇に深く沈んでいった。

(つづく)

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