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『鬼滅の刃』の本当のヤバさを鬼滅を真に愛するからこそ書いてみた



真に鬼滅が好きだから批判も私が書きたかった


2020年の秋頃、テレビでアニメを見た方による『鬼滅の刃』を批判するコメントを様々なSNSで見かけました

鬼滅を知ってから、ほぼこの一年間、毎日読んでいるくらい好きなので、それがとても悲しかったです。けれども気がつきました。『鬼滅の刃』をめちゃくちゃ読み込んだ上での批判は、私の知る範囲では見かけなかったのです。

世の中、この宇宙、なんでも陰と陽でできています。当然鬼滅にも陰の部分、陽の部分がありますしかし『鬼滅の刃』の本当の陰の部分はアニメの画面をほんの少し見ただけでも、漫画をサラッと一回読んだだけでも分からないものだと思います。

なので鬼滅の真のネガティブさは、真に『鬼滅の刃』をアイし、読み込んだ私が書きたいとずっと思ってきました。

最終巻が発売され2ヶ月近くが経ちました。今なら多くの方が最後まで読まれていることと思います。とはいえ、アニメ派の方でネタバレがお嫌いな方はここから先はご遠慮頂いた方がよろしいかと思います。





鬼滅の本当のヤバさとは


まず、アニメがプライムタイムに再放送された頃から私のSNSで批判が飛び交いました

「子どもに見せるか悩む」

「こんな目を覆いたくなるような場面があるアニメが流行っているとは信じられない」

「テレビ点けてすぐさまチャンネル変えました」

などなどです。

「鬼は人を喰う」そして「鬼の首を斬らぬ限り鬼は倒せない」これらが背景にある物語なので、どうしたって鬼が人を喰らう場面、鬼が殺される場面というのは物語全体を通して続きます。

最初、子どもから鬼滅を読みたいと言われたときの私の第一声もこうでした。

「鬼を殺すぅ〜?女の子が猿ぐつわをしてるだぁ〜?けしからん漫画じゃないの?」最初はそんなイメージでした。でもとりあえず1冊だけ私が読んで、その上で判断しよう。そう思いました。ところが私自身が1巻でどハマりしました

『鬼滅の刃』のポジティブ面を大まかに上げるとすれば、先祖さんの想いを繋ぐことを肯定的に描いているところ、努力を馬鹿にしていない、だと思います。

一方で、ネガティブ面も同じようにあり、その一つとして、ものすごく厳しい世界観が挙げられます。

残虐な表現への批判がありますが、そういう目に見えるものだけでなく『鬼滅の刃』は目に見えない厳しさに溢れています。そこを子どもが読むものとして厳しすぎないか、という批判が出るのなら納得です。それほどまでに『鬼滅の刃』は厳しい世界観でできています。

最終回、吾峠先生は、けして鬼を転生させませんでした。二次創作では鬼滅の鬼達が転生している作品がたくさんあります。私も好きで読んでいます。鬼が人間だったころのこと、鬼になってからのこと、それらも丁寧に描かれているので「人」として魅力を感じるキャラも多く、二次創作の作家さん方のお気持ちはとてもよく分かります。

しかし、吾峠先生はそれをされませんでした。子どもが読むものとして当然のことだと思いますが、鬼にも多くのファンがいる作品でそれをするのはすごいなと思いました

そして、本編では彼らの人生の最後までは描かれませんでしたが、痣が出た剣士達は短命です。人は得るものもあれば、失うものもある。今、現代を生きる私達は得たいばかりの気持ちでいる人が多いと思います。「楽をして稼ぎたい」「面倒くさいことはしないで夢を叶えたい」などなどです。私にもあります。しかし、宇宙の法則から言えば、それは成り立たないことです。私達の体、細胞、今この瞬間吸っている空気、この世の中はどこもプラスとマイナス、陰陽でできているからです。

鬼殺の剣士達は短命と引き換えに、人としてありえない力を得ます。いくらこれが宇宙の法則だろうと、彼らの目的が鬼のいない世の実現だとしても、これはものすごく厳しい世界観だと思います

「ここまで厳しいものを子どもに見せていいものか」と思うことはあります。

しかし、子どもだからこそ、嘘のない本物に触れてほしいと思いますし、子どもは本物が好きだと思っています。『鬼滅の刃』でも描かれていますが、子どもは大人の進化系。その子ども達がこうして鬼滅を好きなのは意味があるのだと思います。それを表面だけを簡単に見て、批判し、取り上げてしまうのはもったいないと思うのです。

無論「表現が怖い」と言っている子どもは私の周りにもたくさんいます。当然そういう子ども達はまず作品そのものを見ませんし、見る必要もない、ですよね。

吾峠先生は『鬼滅の刃』の前身となった『過狩り狩り』について「ハンディがあっても普通の人より強い剣士を描きたかった」と言われていました。それはとても厳しい世界観だと思います。あまりに厳しい世界観ゆえにハンディがある剣士が主人公では連載が決まらず、炭治郎という少年を主人公とすることで連載を開始することができたのは有名な話ですよね。

そのような背景から考えるに『鬼滅の刃』自体、本来ここまでメジャーになる作品ではなく、一部のコアな人のために描かれた側面があるのではないでしょうか。ここまでメジャーにならなかったら、一時ネットで飛び交った批判もなかったのではと思います。

でも、アニメがヒットし、ここまでのブームにもなりました。それ故に、普段なら目にしなかった私のような人達が知るようになりました。その中で、見たいと言い始める子どもが現れるのは自然なことと思います。そう言っている子どもから「表現が暴力的だから」という理由だけで取り上げてしまうのはもったいないなぁと思うのです。無論そのご家庭毎に決め事はあるでしょうし、暴力は普遍であるべきではないと私も思いますが。


その他にもある『鬼滅の刃』の厳しさ


鬼滅のポジティブ面として、先祖さんの想いを繋いでいるところが挙げられます。炭治郎の家で、戦国の世から代々伝えられてきた「神楽」。それが大正時代に剣士として生きる炭治郎を支え、結果として鬼のいない世の実現に繋がっていきます。一見美談とも言えるものですが「代々繋げられる」ということは当たり前ではないので、その辺りの背景もちょこっと描かれてたらよかったなぁ、と思うのです。

炭治郎の先祖さんの中には「不器用で神楽が踊れなかった人」「神楽を覚えられなかった人」もいるかもです。子どものいない代もあったかもです。その中で、養子をもらったり、長男でなく他の子が神楽を覚え、次の世代に伝えたこともあったのではと思うのです。

誰しも望むままに子どもや子孫を得られる訳ではありませんし、誰しもがその家に伝わるものを充分に後世に伝えられるほど有能に生まれてくる訳ではありません。『鬼滅の刃』はスピード感を大切にした漫画ですので、この部分は省かれただけだと思って脳内補完しています。

これからを生きる子ども達が、竈門家のあり様をスタンダードと思ってしまうようなら、そこはやはり厳しすぎると思います

とにかく鬼滅はスピード感を大切にする作品なので、全体的にいろいろと端折られています

「炭治郎スゲー!で、俺はどうすりゃいいの?」そのアンサーは作品を読み込めば分かるものだと思っていますが、相当読み込まないと分からないものだとも思っています。なので『鬼滅の刃』のアンサーは『暗殺教室』にあると思っています。私は鬼滅を勧めるときは、必ず暗殺教室も勧めています。「鬼殺の剣士達みたいに生きられない、けど自分を活かしたい」そんな人にとって『暗殺教室』は丁寧に自分の活かし方を伝えてくれると思います。


最後にやはり書きたい鬼滅の素晴らしさ


『鬼滅の刃』は表面的な表現だけに囚われて、読まないままにしてしまうにはもったいない作品だと思っています。人として生きる。人として死ぬ。この当たり前と思ってきたことが、なんと難しいことかと思い知らされるからです。人として生まれ、生き、大人と呼ばれる年齢になり、その間、何度鬼となったことかと自分の半生を振り返りました。真に自分に正直に、周りの人に対し正直に生きることはなんと難しいことかと思います。

しかし、こうして目に見える形で吾峠先生が表に出して下さいました。迷ったら、炭治郎ら剣士を思い浮かべればよいのです。彼らを前にした時、恥ずかしくない自分であるか。一つの指針ができた気がします。

吾峠先生がお描きになられる世界観は厳しく、真摯さにあふれ、清廉さがあります。こういったものに現実世界で触れる機会が減っている現代において、本物を求める子ども達が『鬼滅の刃』をアイしたことは偶然ではないと思っています

そして私を含め、多くの大人たちもハマりました。どれだけ今まで私の周りにはこのような清廉さも真摯さもなかったのかと思わされました。

なので、そこを感じることなく、アニメで一部の表現を見ただけでこの作品を嫌厭してしまうことはもったいないなぁ、と思うのです。無論、なんでも好みがあるものですし、鬼滅自体、万人ウケする漫画ではないのですが、つい欲張りでお節介なのでそう思ってしまいます。

ファンブックや原作画集の発売が近づいてきましたね。吾峠先生の書き下ろしが読めるだなんて本当にうれしいです。ここまでお読み頂き本当にありがとうございました。



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