最初の日*入院生活のはじまり

CTの撮影をし、カーテンに囲まれた部屋にベッドのまま運び込まれた。
母と彼が傍に座った。

「びっくりした?」と、私は2人に声をかけた。

「そりゃあ、ねえ!」と、母が言った。

母には彼と付き合っていることは一度も話していないし、もちろん会うのもその日が初めてだった。私はどうすれば良いかわからず、「何か話した?」と続けて尋ねた。
母は「たくさん話しましたよ、ねえ?」と彼を見た。彼は「はい」と答え、「どうやって倒れたか覚えてる?」と私に話を戻した。
私が「全然覚えてない」と言うと、当時の状況を説明してくれた。「白目で痙攣しながら後ろに倒れて、泡ふいてる感じだったんだよ」
「えー、それめっちゃ怖いじゃん。迷惑だねえ。」と言うと母に「本当そうよ。」とため息をつかれた。彼は優しいので「怖かったよ」と言いつつも「大丈夫だよ。」と言ってくれた。
「それで、2人で何の話したの?」と聞くと母が「色々話したわよ、元気になって彼に聞けば」と言った。

私は母に心配をかけたくなくて笑ってたくさん話しかけた。これは私の癖だ。基本的に私はお喋りな方ではあるが、心配をかけまいとすると不自然に口数が増える。自分でも不自然なことはわかっているが、不安を不安のまま抱えていられないという傾向がある。

鈍感な母もきっとわかっていただろう。同じように、私に心配を悟られまいとしているような気がした。彼が居たのもあって、いつも通りを装うように私たちは会話をした。

救急の医師が、造影剤の使用に関して私と母に説明し、私はMRIの検査をすることになった。
その間に母は彼を家に送った。
交通機関の発達していない田舎にある病院であり、バスも電車も最終便が終わっている時間だった。

MRIによる検査はとても怖かった。
事前にお洒落な丸眼鏡をかけたチャキチャキした美人な看護師さんから、「暗いところ、狭いところは平気ですか?」と聞かれた。
正直なところ、私は狭いところがとても苦手である。しかし私は「多分」と答えてしまった。
看護師さんは「はあ、多分」と少し困りながらテキパキと準備を進めた。
ああどうしよう、大丈夫じゃなかったらどうしよう、動いちゃいけないと言われるとなぜか動いてしまいそうなこの現象なんなんだろう、何か名前がついているのだろうか、あああ、と思っていると、「耳栓しますねー」、ずぼっ、と耳栓をされた。
「え、え、な、なんで耳栓するんですか!」と私は言った。看護師さんは「あ、工事の音みたいな、大きな音がするのでこのままいきますね」と答えた。
え、え、工事の音って?大きな音って?耳栓をするほどの?それって耳栓だけで大丈夫なの?え、このまま始まるの?あわわ、あわわ、と思っているうちに検査が始まってしまった。
機械の中に自分が入っていくのは感じ取れたが、目を瞑っているので何が起きているのかはわからない。
そして確かに工事の音のような、ガガガガ、ドンドン、という音が響いた。
こわい、こわい、と思っていると造影剤が入ってきた。かーーーっと顔が熱くなった。
それが何回か繰り返され、あ、もう、もう本当にこわい、どうしよう、こわい、と思っていたら検査が終わってしまった。
"終わってしまった"、というのも、私は怖かったものの検査を乗り越えてしまったので、これからも"MRIが大丈夫な人"になってしまったからである。

倒れた直後でなんとなくぼんやりしているのもあり、検査や治療の説明はほとんど母が受けた。
きっと私に説明されたとしても、疑問点を尋ねる気力もなかったし、"同意"するしかないのだろうと思った。
されるがままでも、難しいことを考える元気はなかったのだ。

MRIの前に採血をされたが、私は「血管細いね」と言われることがよくあり、医師と看護師が代わる代わる挑戦するも失敗が続いた。
注射がとても嫌いなので、ひどく苦痛な時間で涙が出た。「ごめんね、ごめんね」と謝られたが、こちらこそいい大人がごめんなさいと思った。それでも泣き虫な私は涙を止めることはできなかった。最終的には研修医による採血が成功した。
ところで採血したのとは反対の腕に点滴がついているが、これは一体、何のためのものなのか。薬なのか栄養なのか?考えることも質問することもできず、今の私には確かに"同意"しか選択肢はない。しかし、この先どころか現状もわからない、その見通しの立たなさに不安をますます煽られた。

MRIが終わり、「お疲れ様でしたー」とテキパキ装着を外された。「じゃあ、移動しますねー」「あ、えっと、あの、耳栓、、」「あ、ごめんなさい耳栓とりますね」ずぼっ、「はい、じゃあ移動しまーす」と極めて冷静にベッドでの移動が始まった。

移動しながら主治医となる脳卒中科の渡邉先生が、状況を説明してくれた。頭頂葉で出血がみられたこと、しばらく入院しながら経過観察が必要であること、そして1週間後に控えている資格試験を受けに県外へ行くことは現状厳しいということが話された。今でもはっきりと覚えている。「そういう心算でいてください」と言われたことを。
そうなのか、もう意識ははっきりしているのに、そんなに入院が必要なのか。でもまあ不安だった見通しが少し持ててよかった。何が起きているのか、今後どうなるのか少しわかってきた。だから私はその言葉を受けて「そうですか」とだけ答えた。

そのまましばらくベッドで揺られていると、両親が廊下にいた。
私はベッドの上から手を振った。父は少し呆れたように、でも安心したように「ふん」と控えめに笑い、いつも通りを装う母は「手振ってるし」と笑いながらツッコミを入れた。

私はこれからお世話になる集中治療室の440号室に入った。
看護師さんは、両親に面会時のインターホンの説明をしていた。
部屋には母だけが入ってきた。
「お父さんは?」と聞くと、「(母の)充電器届けてくれただけだから」と答えた。
そして、資格試験行けないかもと言われたことも母に話した。「そっか聞いたんだ」と言った。
そこで私は渡邉先生の説明について、それまでどこか他人事のように感じていたことにようやく気がついた。
自分のことだとわかった瞬間、涙が溢れた。
母は私の手を握り、「命の方が大事。」と言った。「あなたが頑張っていたことはみんな知ってる。彼もあなたなら絶対受かるって言ってくれてた。お母さんもそう思う。だから悔しいよ。でも、命の方が大事。試験は来年もあるでしょ?」
もう私の涙は止まらなかった。

それからいつ泣き止んだのか、母とどのように別れたのかは覚えていない。

1人きりになり、段々と眠たくなってきた。時計を見たら午前2時を回っていた。うとうとしていると、くせ毛の看護師さんが部屋に入ってきた。私に入院患者用のリストバンドをつけに来たのだ。
「お名前と、生年月日を教えてください」
入院中、何度名乗ったか数えておけばよかった。これが最初の"自己紹介"だった。
私が名前と生年月日を述べると、つける前のリストバンドを見ながらくせ毛の看護師さんは、「あ、へー、俺と同い年だ」と言った。
眠たいのでぼーっとしながら「あ、そうなんですか」と返した。「うん、早生まれなんだね。だから学年が一緒」と言ってにこっと笑った。
私は病院が子どもの頃からとても苦手だったが、その笑顔に少し緊張が和らいだ。
「トイレ行っとく?あ、彼氏さんの家から来たから靴がなーい!」と言って「これでごめんね」と使い捨てのスリッパを持ってきてくれた。
トイレまで点滴をつけたまま行き、また部屋に戻り、看護師さんが血圧計、心電図など機械をたくさん装着した。
「血圧、ちょっと鬱陶しいかもしれないけどすぐ慣れるから」と言われてはじめはどういうことかわからなかった。
その後、1時間に1回自動で血圧が測られることに気づき、なるほど、と思った。
「電気消す派?」と聞かれ、真っ暗で寝れますと答えると「オッケー、じゃあおやすみなさーい」と言って看護師さんは電気を切り、部屋から出て行った。
とても眠たかったので、こんなにも色々なことがあったのに、血圧計のことなどほとんど気にならずすぐに眠りについた。
そして最初こそ点滴針を気にしてもぞもぞと体勢をかえ、良い位置を探していたが、その良い位置が見つかる前に寝てしまったのでこれから毎日もぞもぞと探ることになる。



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