「信じさせて欲しい」と「認められたい」のすれ違い
ある日のこと、血相を変えた父親から電話がかかってきました。
「お前、入信したのか?」
その頃既に私は実家を離れていたのですが、何故かその実家に、私宛にとある宗教団体から資料が届いたというのです。どうやらあまり評判のいい宗教ではないらしく、家族は大いに慌てたようでした。
もちろん、私は入信などしていません。入信するくらいなら自分で宗教興すもん。諭吉大好き教とか。うさぎかわいい教とか←ハイハイ馬鹿なんでねこの人
しかし、何故私宛にその資料が届いたのか。
実は、思い当たることがありました。
その頃知り合いだったある人が、その宗教の信者であるということは小耳に挟んでいました。結構いい年なのに、家族との関係性などにおいて行動に疑問点があり、なるほどな、とは思っていましたが、その人がそれで幸せならばそれで構わない話なので、気にせずごく普通に接していました。
その人がある日、私が悩んでいることを知って、その宗教の話を聞いてみないか、資料を送るから住所を教えてくれ、と言ってきたのですよ。
あまり詳しくは覚えてないですが、私はやんわりと断ったはずです。少なくとも住所は教えませんでした。そもそも家に遊びに来たことがあるはずなので、教えずとも住所には見当がついたはず。
そうだな、おそらくはその宗教の教えによるものなのか「◯◯なんてダメだ」と強い言い方をしてきたので、あなたにはダメに映るかもしれないが私はとりあえずこの方法を選んだので、くらいは伝えたかもしれないな。つまり余計なお世話ってことなんですけど。どうしてダメなのか根拠もわかんないし、そもそもたぶん根拠ないし。知らんわ。
そのやり取りから程なくして、実家にその宗教の資料が届いたわけですよ。
疑うな、と言われてもちょっと難しくないですかね…。もちろん、あまりにもタイミングよく発生した偶然という可能性もなくはないですけど。
家族を慌てさせたこともあり、私はその人に聞いてみました。うちに資料を送ったかどうか。
そうしたらその人は激怒。そんなもの送ってない、と言うのです。
そう言われたら疑ってごめんねと謝るしかないのですが、ここでもうひとつ、頭に浮かんだ話があるのです。
私はこの人とはさほど密接に関わることがなく、ごく普通の明るい人だと思っていました。ただ、格好に違和感があったくらい。聞けば私より随分年上なのに、異様に服装が若かったのです。
年齢を重ねたら若々しい服装を選んではいけないという意味ではないです。そこそこの年齢になっても、かわいい格好がよく似合っている人もたくさんいらっしゃいます。つまり、そうじゃない。着こなせていない。本人に服装が寄り添ってない、そういう違和感なんです。伝わるかなあ。
絶対ではないですが、服装に「妙な違和感」をある程度恒常的に感じた人はたいていその人のことで苦しむことになるので、私はひとつの基準にしています。ダサいとか何とか、そういうことではないんですよ。異様なんです。うまく説明できないのだけど…。
しかし、さほど関わることがなかったせいかそれも気にしないでいたのですが、この人の評判がどうやらとても悪いことにだんだん気がついてきた。変わってるけどいい人や、とても穏やかな人たちが、明らかにその人を拒絶するような、怖れるような態度なのです。何かが変だと思った。
どうやら、その人はとても傷付きやすく、方々で問題を起こしていたようなのです。本当はそんな事実がなくても、その人の中では事実になってしまい、自分は傷付いた、と言って回るような。確かに、話を聞いていても矛盾を感じることはありましたが、その場の状況を見ても聞いてもいない私には判断しようがなく、そうなんだね、と流していました。
勝手に事実ができてしまうということは、勝手に事実が消えてしまう可能性もある。本当はその人が宗教団体の事務所に頼んだのに、そんなことはしていない、と言い張っている可能性は、残念ながら十分にありました。
それでも、すべてはいわゆる状況証拠で、それ以上追跡はできなかった。とりあえず、尋ねたことでそれ以上勧誘されることはなかったし、たぶんそのあと何かがきっかけでいきなり着信拒否されて縁も切れたので今更確かめようもないですけど。
でもねえ、やっぱりあの件があの人と無関係だったと考えることは、ちょっと難しいような気がします…。もし私の考えた通りだったとしたら、私の情報を調べる方法がその団体にはあったということなので、それもまた怖いですけど。ちょっと情報が古かったけどね。
全然関係なくて本当に偶然だった、そういう結末であればいいな、やっぱりそう思いたいんですよ、それでもね。
明らかにその人が原因なのに、「自分じゃない」と言い張る人に驚くことがこれまでにもありましたが、皆同じ心理状態なのかな。おそらく、とにかく自分を悪者にされることが異常に怖くて認められない。だから他人を攻撃するか、事実をねじ曲げてしまう。さらに、言い回しがうまかったり演技力抜群だったり見た目が美しかったりすると、事実じゃないことを事実のように語っても信じちゃう人がいて、ますます事態が混乱してしまうのかもしれない。何でこの人の言うこと信じるの?って事態がニュース見ててもあるもんな…。
それが、その人は弱い人だから不問にしましょう、と言われても、まあ普通納得いかないですよね。今回は私が宗教に入らなければそれで済む問題だったからまだいいけれど。
人は嘘をつくものだと思ってかかるべきなのか。ぐうの音も出ないほどの証拠を常に用意できるように周到に生きていなければならんのか。そういう「嘘つき」が近くにいると、真実を訴えても信じてもらえない事態が起こりうるのを果たしてどうすればよいのか。その逆に、必死の訴えを信じても嘘かもしれないなんて。
普段から真っ直ぐに、誠実に、真剣に生きるしかないのかもしれない。いざという時に信じてもらうには、泥臭いほどの正攻法しかないのかもしれない。ちゃんと見てくれない人ももちろん大勢いるだろうけど、誰かにはちゃんと伝わるのではないか、そう信じて。
何が正しくて何が正しくないのかホントにわかんなくなるけど、100%は無理でも、自分以外の人間を視界に入れて、その人に対して真っ直ぐであることだけが正解なのかもな、と思ったりします。
宗教も、その人の拠り所になるなら別に悪いものじゃないと思うんだよね。宗教だからイメージが悪いだけで、酒とか煙草とかグルメとか服とかアイドルとか伴侶とかペットとか、何かを絶対視して支えにすることはたぶんみんな同じなんだろうし。ただ、酒や煙草に溺れすぎると健康を害したり、買い物にお金を使いすぎて破産したり、行き過ぎたアンチになったり、相手に依存して苦しめたりするように、ハマりすぎると宗教も毒になってしまう。
何より、たとえば友達が「うちの旦那は最高」って言ってるだけならハイハイって聞き流せるものを、うちの旦那の最高さがわからないお前はおかしい、って言い出すと死ぬほどうっとおしいように、この宗教を信じないお前はゴミだ、と言い出す可能性があるのが厄介なんでしょうね。今回の話の人は、それに近いことをやっちゃったので、勘弁してくれ、って話になってしまったわけですよ。
人はみんな自分を肯定して欲しくて肯定して欲しくて、程度の差こそあれそれから逃げられない生き物なんだな、とぼんやり考えてたりします、このところいろいろ機会があって。誰かに肯定されることは確かに力になる、すごく。でも、肯定されることを求めなくなったところに本物が生まれるのかもしれないと、そんなことも考えたりするのです。
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