アリとキリギリスの新しい?教訓
多様性の時代っていうとなんかかっこいいけど、要するにカオスよね。価値とか量とかが一つの目盛では測れなくなる。なので、比べるっていうことができなくなる。というか、意味がなくなる。
強者弱者とか、勝ち組負け組とか、正しいか間違ってるかとか…そういうのも統一の基準がなくなるし、瞬間瞬間の状況によって変化するので、意味は無くなっていく。そのとき、自分がいいと思うことをチョイスしていくしかない…なんか落ち着かないめんどくさい時代になっちゃいそうです。おもしろい🎶ともいえるけど。
アリとキリギリスの話は知らない人はいないだろうと思う。でもこれにはさまざまな終わり方がある。
◆1 夏に遊んでいたからこうなるんだろう、自業自得、とアリはキリギリスを助けることはしない
◆2 キリギリスは「歌うということを生きがいにしていたのであって、歌えないなら冬を生き延びようとは思わない。亡骸を食べてくれて良い」と言う
◆3 食料は余っているのでアリは分けてあげる。思うように働けない毎日が退屈だからキリギリスに歌を聞かせてくれと頼んで冬を過ごす。
◆1は「働かざる者食うべからず」という古典的な物語展開。◆2はカッコいいくらいのロックな生き方のキリギリス。◆3が…たぶん、今のこれからの生き方なんじゃないかと思うのだけど。
従来の価値観だと、◆2は愚か者という烙印を押されておしまい。◆3は怒られちゃうやつだ。アリは働いた上に食料も提供して、冬場の生活も支えて、それでお返しがキリギリスの歌だけかい??不公平極まりない、圧倒的にアリが不利でキリギリスは腹立たしいほど楽ちんな生き方をしている! 許すまじ!怠け者の過保護だ!(某メンタリストがなんか言いましたっけね;;)
でも
ゆるいようだけど、これが両方を一番幸せにしている終わり方だがなあ、と思う。
アリさんは働きたいし、食料を溜め込みたいのだと思う。そうせずにはいられない。キリギリスは歌いたいし、歌わずにはいられない。だけど食料のために汗を流すことがどうにもできない。自分で楽しむということがどうにも苦手なアリが、キリギリスの歌を喜ぶなら、まるっと両方幸せ🎶
アリさんがとても善意な人で、犠牲的に働き、かわいそうだと思ってキリギリスとうちに置いてあげる、アリさんのように心の広い人間になるべし、っていう解釈は違う。絶対に。それをやると台無し。「もっと、合理的に、アリが用意する食料とそのための労働力、一方、キリギリスの歌の市場価値を算定して比較すると…」なーんてアホらしいことはしてはいけない。そこには目盛はないのだから。アリさんありがとう、キリギリスさん大好き、それでいい。
甘い?ゆるい?現実はそんなもんじゃなくて…
たしかにね。アリとキリギリスを例に出すとどうしても、仕事と娯楽、とか 生産性と個人の欲求、とかいったどっちが優先っていう、ここでも2元論になっちゃうんだけど。いろいろな弱いとこ、強いとこ、やりたいこと、やりたくないこと、が、さまざまな濃さ厚さで重なり合ってまるっとなっていくという、太極陰陽魚図みたいな世の中になり始めてるんじゃないかしら、と思うわけです。
笑われるかもしれないけど、たのしみ🎶
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