『はらただしさ』6/25(土)18:00の回ご感想

ネタバレ防止のため、一部表現を変更・省略させていただいております。ご了承ください。

おつかれさまでした。
単純な意味ではないですが、面白かったです。
以下、長めで思いついたままですが、書きます。


劇場というソーシャルメディアに取り込まれて見ていた感覚だった。
確信はないが、語られる内容の主体が均質化されて、言葉の波紋の様なものを極力起こさないような意思を感じる。
PEACE FOR ALLな衣装も、それぞれの動きの癖づけも。

作中で演者は執拗に客席を見るが、見ているのは「こちら」であって「僕」ではない。
客席に座る観客の姿に代替された、匿名性に隠されたタイムラインだ。
だから目が合っているようで実は合っていない。
見ようとしているものが違う。
見たいものしか見ない「自分の」タイムラインを見ている様に感じる。
つまり、投稿者はこちらを、本来の意味で相手を見ていない。
見ているのは多分、こちらではなく自分の言葉に対するリアクションであるのだろう。
客席にいる自分は、カウントされるview数のひとつでしかない。
ここで観客は、作品に取り込まれながらROM専であることが役割になる。

客席も舞台も均質化されていて、SNSなどに代表される仮想的に表出した言葉は、声としてこちらの思惑とは別に読み上げられる。
文字はその時点で身体化されていく。

演劇というメディアの中での暗黙の了解として、明確な同意のない同意のもとに、客席(数的マジョリティ)と舞台上(数的マイノリティ)までもが均質化されていく。
舞台と客席に大きな区切りはないため、観客は目の前で追想のように繰り返される反復に取り込まれる。
厳密には当パンの有無や方向という区切りが作られているが、違いと言えば演者と観客いう立場(役割)だけで、明確な区切りはない。
役割の通り客席は黙る。
演者は客体としての(ように見える)言葉を語り続ける。
ネット人格としての客体というべきか、それすら当然のように使い分けられている。
リアル人格でも相手によって微妙に使い分けてしまうだろうし、ネットでもリアルでもコアな人格をどこまで隠すかが主客とのバランスなんだろう。

髭さんがタイムラインのどこかで引っ張ったエビデンス(の様なもの)をひけらかすクソリプ担当に見えるのは、その点では的確なのかもしれない。
聞いてないのに応えられ、聞かれたくないのに聴いてほしい、身体化されたSNS。

境界のように垂れる、オンラインのようでありながらオフラインのようなマイクロフォン。
これだけが唯一の、本来の意味でひとりごとのための道具なんだろうか。
劇中で発語される言葉の多くは、誰かが「見ている」言葉のようで、テキストに変換≒代替可能なものに転倒している気がしたので。

(※引用者による中略)

人は擬似的な同一化で共感することは出来るが、同じにはなれない。
自分が自分でしかないことを、この場で再び悟るだけだ。
全てに平和が訪れた時、人は、自分はどうなるのか。
全ての平和とは、どんな状況を示すのか。
PEACE FOR ALLと画一化された、制服のような姿にはなれるのか。
だれもがみんな、同じような姿で。
これも均質になっている感覚を持ったひとつの要素だ。

均質化「している」ようで「されてる」よ。
「見ている」ようで「見られてる」よ。
というような、演者も含めたその場にいる無意識集合体の歓喜、「ヒト」に対する警告的な要素。
無自覚に見ているほど、意味も理由もわからない不安に取り込まれていく気がする。
だからこうしてなにか言葉にしないと、ただただタイムラインに流される意味をなくした言葉になり、自分の感情は流されてしまうように思えて、どこか不安になる。

演者が常に体のどこかを掴む、動く、歩くなど不安を想起させる動きをしているのはそんな不安の表出に見えた。

だれが聞いているのか、いないのか。
向けられる視線と共に、それは交わらない。
向けていても交わっていないように見える。
どこかに齟齬がある。

一見演者の感情が見えないと感じていたが、それは役柄としてか演者としての抑圧なのか、どちらも分離しているのかは僕の中で考える余地がある。
それは演者個々人でも差が見えたので、コントロールされたものかが不明瞭だったからである。


などと言ったところで、きっと今言語化出来ていない部分やあの場で感じた肌感、恐らく感情移入をしていない(ように演じた)演者の、テキストと切り離された部分での身体に本質がある気がしている。
たとえば僕は怪談が好きだが、本当に怖いのは理屈で説明できない現象であると思っている。
『はらただしさ』という作品の中に、言語化して物語ることができないことの中に、真理が隠れていたりすることも多いんじゃないか。
言語化の放棄かもしれないが、そんなことも思う。


自分ごとであるがSNS上でこの作品の感想を書くのはどこか憚られるので、数年ぶりにアンケートを書くことにした。
書いても書かずとも、まんまと代替物に乗せられている。

でも、観た上でなにかを伝えるべきだと思ったので書く。

つらつら書いても意味はないが、書かないともっと意味がない。
言語が身体化されたものを自分の身体で受け止めて、その身体で再度言語化しているのだから。



乱文大変失礼いたしました。
千穐楽まで無事に終えられますように。

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