5/7(日)プレ公演ご感想
※5/7(日)に実施した『いつだって、はじまれる。』プレ公演の際にいただいたwebアンケートです。
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走り書きのメモを元に書いていますので、内容が重複していたり読みづらいところがあると思いますが、そのまま記載します。
とても面白く拝見しました。
ヴィレヴァン的な店は、時々合わない時がある。
体調なのか、圧に負けるのか。
モノに宿る意思みたいなものの圧かもしれない。
モノがそこにある以上、モノに擬えられている作品の意味性を考えてしまう。
冒頭のレイアウトを悩む中でのスリービルボード、商品であり店員の自室にもなるその周辺、偶々自分が座った席の目の前に(見える様に上に置かれた?)キリングジョーク。
見た限り、飾られた商品に最新刊と思われる本はなかった気がした。
ということは、ここはパプリックイメージとしてのヴィレヴァン『的』な店舗でしかないのか、と解釈した。
レジ横には劇団の缶バッジ、客席は商品の中、セールと書かれたネオンは客席側の頭上にある。
そこに座る観客は、意図せずとも店の商品とされてしまう。
この形はいつものうさぎの喘ギと言える。
個人的に好きな手法ではあるが、前回拝見した『はらただしさ』程の衝撃はなかった。
観客はただ商品としてそこにいて、傍観し続ける。
商品的に並ぶ様に傍観することと、『はらただしさ』の時の様に傍観「させられる」のは、似ているようで違うので、作品の内包する『社会性』への接続がに曖昧になっていた気がする。
それはつまり、SNS≒ヴィレヴァン的(カルチャー)のどちらに、観客が強制力を感じるかにあるのではないだろうか。
今回はより現実的な会話劇に寄った作りであると感じたので、その点ではどうしても商品がノイズになる瞬間が多くなってしまい、視点と思考が散漫になってしまうことが多くなったのは残念だった。
作り込みがしっかりしていた分、実店舗と同じく作品の設えとしての『商品』を見てしまう。
まさに劇中での言葉通り、(作品自体が)なんやかんや全て商品なので、本来の売りが埋もれてしまった様に感じてしまった。
作り込みや商品だけを見る作品ではない筈なので。
モニターに映る店員の『推し』は(座った席の角度的に画面はよく見えない上に、顔は隠れている)ある種の匿名性を持っていて、声は中筋さんの声に聞こえた。
しかしながら、顔が隠れていることもあって中筋さんである確証はなく、メタ化していることでもある気がする。
発達の問題を明かす前と以後、表に出る前と以後、どれも本当で作りもの。
それはポップを貼られる以前に、他者にラベリングされる。
現に、僕も演劇作品としての『いつだって、はじまれる。』を感想でラベリングしている。
あえてそれを引き受けて、ラベリング視点で見る俳優は、吉村くんのみが限りなく素に近いか、僕が知るパブリックな『吉村篤生』を演じたままの感が強かった。
翻って、他の俳優の演技体の強さ(良い悪いではなく演じている感)が際立って、時にバランスを欠いていた気がした。
そのアンバランスさが気持ちいい瞬間も勿論多々あったのだが、全体としては店員兄妹が最もバランスが良かった。
誰もが巻き込まれる社会性≒属性、離れられない何か。
それは誰かを自分の社会性に巻き込むことでもあり、ラベリング≒他者視点によって、自分の社会的立ち位置を知る。
それは誰かを自分の立場から固定化することでもあって。
パンフレットに表記された出演者の役名は肩書き、属性だけだった。
主体が属性であるのか、そこまで深読みすれば配役もより納得出来る。
僕の主観であるために本来の演出意図は読み切れないが、読み切れないことも織り込み済みなら、わかる人だけわかればいいとなってしまう気がして、なんだか勿体ない気がした。
偶然、僕の目の前にあったポップ、『森のピアノ』が文字通り『ピアノの森』と転倒していて、ありがちなポップだが意味性を考える。
劇中で語られるような、意味を与え別価値を作るようである。
終盤にキョロちゃんそっくりのものに貼られた『人生はモノマネだ』というワードのポップは個人的に刺さった。
劇場に作られた店舗、そこで働く人々、それを演じる俳優。
メタ構造と観客側のメタ視点。
こちらに「主体性はあるのか」と問われているようだった。
演出指定の文言なのか、俳優が考えたのか。
とても目を引いた。
各所にそんな文言のポップがあるのだろうが、見えない。
それでいいのだけど。
客席位置で見えるものが変わるのは当然で、敢えてそこにしか見えない視点を与えてるなら、作品理解の幅は広がるが、本質に対する理解の境界は曖昧になる。
キリングジョークもスリービルボードも、境界を描く作品だと思うので、それは今作品の暗喩の様にも感じた。
では、その境界を曖昧にした(演技体や美術の設え、場面転換や客席の配置など)が効果的であったかというのは少々疑問が残る。
一旦アクティングエリア?からはけたら靴を脱ぐなどは今は出番ではないとのしるしなのか、状態が違うだけで(人生的に)シームレスさを持って出番が続いているということなのか、悩む。
中央では自宅的な場所(それは店でもある)で日々を送る吉村店員がいる。
あ、名付けると更に大きく属性を与えてしまうのか。
ホンモノだ、というニセモノ(録音)音声の高まりで終わるが、そこに存在するのはホンモノでもニセモノでもない、ただ存在する人間だった。
繰り返すそのシームレスさは、ある種本物で偽物であった。
本物の人であるな、と大きく感じたのは、劇中で吉村くんの身体的な癖(拳で腹を触る)と凪詐くんが最後の一礼で立ち位置を迷ったことで、それがちゃんと見えたのは座り位置によるところが大きい。
だからこそ、(それでいいと思うのだけど)座席の配置によって見えるものの意味性が大きく変わってしまうことをよしとするのか、という疑問は感じた。
観客が深読みしようとすればどんどん深読み出来てしまうし、理解を放棄することも増えると思う。
積極的な誤読をよしとする観客はどのくらいいるのか(観客への信頼感や作品強度)が、ギリギリのバランスで持ちこたえている作品だと感じた。
誤読深読みが出来る作品は良作であると思うが、悩ましさも残る。
繰り返し見たい、という想いが強くなる作品であった。
本番が盛況になりますよう。
うさぎの喘ギ第9回公演/ウイング・レジデンスプログラム
『いつだって、はじまれる。』
2023.5.11(木)-5.15(月)
at ウイングフィールド
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