自覚した天才である姉と、自覚しなかった天才の師

諸注意

・こちらの記事は、ぷらいべったーに記載していたものを自ら移植した記事です。
・この記事は「黛灰の物語」を一通り視聴した方向けの記事です。「野老山」が何かわからない場合は読むことを推奨しません。
・「鈴木勝になる物語」と「黛灰の物語」のネタバレを含みます。
・主に「黛灰の物語」の考察ですが、「鈴木勝になる物語」の重大なネタバレを含みます。


 野老山について私自身少し違和感を持っている点について話させてほしい。
 まず、「.」での野老山の以下の発言に注目したい。

(2:55ごろ~)

「仮想を超え、レイヤードと呼ばれる存在の人間たちをも超え、
私は名実ともに魔法のような所業を成し遂げたウィザードとなる!
天才とは、彼女でも彼でもなく、この今を生み出した私こそが!

 その後、投票により消える危機に陥る訳だが、その際に野老山の本当の目的について明かされる。

「このままでは私は何も超えられない、ウィザードになり得ない!
「彼に、もう……何もしてあげられない!」

 この文章だけ読むと、「黛灰を救うためにウィザードになろうとしていた。」という事実が読み取れる。
 しかし、これはかなり感覚的というか、もはや勘なのだが、なんだかそれだけではないような気がしてしまうのだ。
 一つ引っかかっているのは、声色だ。あんなに音声加工をされて顔も見えないのに何を言うと思うかもしれないが、私は「私こそが!」と言ったとき、「上がった口角」を想像した。直感的に「本当に嬉しそうだ」と感じたのだ。なぜ「天才になること」が「嬉しい」のか、という点が引っかかっている。
 もう一つ引っかかっているのは「天才とは、彼女でも彼でもなく、この今を生み出した私こそが!」という言葉自体だ。もし、黛を救うためだけなのであれば、自分自身が天才であることを主張しなくても良いはずだ。また、ウィザードを神聖視していて、それになることで黛を救えるのだとしても、「仮想を超え、レイヤードと呼ばれる存在の人間たちをも超え、私は名実ともに魔法のような所業を成し遂げたウィザードとなる!」という「全ての人間の頂点に立った」ような言葉も、なんだか引っかかる。
 なぜ彼は、systemによる強制アンケートの寸前まで、黛を救うだけではなく、全ての人間よりも上に在ろうとしたのだろう。


 話を変える。野老山が言っていた「天才とは、彼女でも彼でもなく」の(恐らく)彼女、鈴木勝の姉、鈴木悠理の話だ。
 2434system誕生について、鈴木勝の物語では「鈴木悠理の独白」として綴られている。

(43:19ごろ~)

 そして、彼女は2434systemを作った際、以下のような苦しみを抱えていた。

『私の研究が正しく機能することを、世間に、世界に証明する機会だと』
『肉体が元の機能を取り戻すまで、夢の世界で平和に過ごしてもらおう』


「そう思いました。そう、思ってしまいました。」
「しかしどうやら私は、天才ではなかったようで、
失敗をしてしまいました。

「姉を演じる私、研究者としての私。どっちが私に見えてるのかなぁ。」
「お姉ちゃん、もうわかんなくなっちゃった。」

 鈴木悠理は、どちらが本音でどちらが建前かを、見失っていたように見受ける。
 この二つの意見、世間的に見られるメリットと自分の身内へのメリット、どこかで見たことがないだろうか?そう、野老山と近しいのだ。


 二人に共通する点は、「身内を救うためには天才になる必要がある」ということだと思う。また、二人とも天才と言われるほどの素質はもっており、すでにすごいことを成し遂げている点も近しい。しかし、鈴木悠理は鈴木勝に選択を委ね、野老山は黛灰を導こうとした。もし鈴木悠理が野老山のようにするとしたら、「姉として弟を引っ張る」という名目で導こうとする未来もあったかもしれないし、逆に野老山は「ひとり立ちする弟子を見守る」という名目で選択を委ねることもできたはずだ。
 この二人は何が決定的に違っていたのか。

 私はこれを「手段が目的になっていることに気付いたかどうか。」だと考えた。

 鈴木悠理は、両方のメリットを取ろうとして失敗しているからか、天才という肩書きにはもう固執していないように感じる。「失敗」というプロセスを踏んだことで、手段が目的になっていたことを「自覚した」のではないか、と私は考えた。
 逆に野老山は、「天才」に固執しているように感じた。「黛自身が『天才』であって、『才能を持った人間』であることを事実にしたい。『才能の持った人間である』という設定を現実の物にしてほしい。」という言葉や、先程の「天才とは、彼女でも彼でもなく、この今を生み出した私こそが!」という言葉に表れているように感じる。「天才」という言葉に執着を持っているからこそ、「ウィザードになり天才の彼を導く」=「自分は天才になれる」「加えて彼も救える」という、鈴木悠理が失敗する前の、両方のメリットを取ろうとした状態になってしまったのではないか。いわば「手段が目的になっていることを『自覚しなかった』のではないか」と考えた。


 この一言からの深読みになってしまうのだが、私はこの言葉に、「もしかして野老山は今まで天才と呼ばれたことがなかったんじゃないか。」と考えた。もし、今まで天才と呼ばれた事のなかった人間が、天賦の才を持つ子供を見つけ、育て導いたとしたら、「その天才を見つけた自分は天才だ。」と思うんじゃないのか。そして、もしこの世界が、見つけた才能が、自分が天才という証が、偽物であると言われたら。せめてその「天才」を本物にして、自分も天才である証を残したかったのではないか、と私は感じた。「虎の威を借る狐」とはよく言うが、野老山はこの現象に陥ってたのではないかな、と深読みした。
 そう考えながら3Dお披露目のCパート映像を見直すと、今なら納得できる言葉がある。「私が見出した天才たる彼」「愛しい我が子 私だけの傑作よ」という言葉だ。

(57:00ごろ~)

 「私が見出した天才たる彼」は「"私が"見出した天才たる彼」という強調の仕方をしていると捉えられる。「愛しい我が子」というワードの後に「私だけの傑作」というモノのように扱う言葉があったのも頷ける。「自分が見つけ、育て、天才と呼ばれるに足る人材を作り上げた。」ことに陶酔しているように見える。


 黛の話を聞くに、野老山は本当は天才だったのだろう。それに、「自分が天才である証」以外にちゃんとした「自分が育てた弟子」という愛情も持っていたのではないかと思う。でなければ「彼に、もう……何もしてあげられない!」という言葉は出てこないのだから。
 ただ、彼は弟子からどう思われているかを自覚していなかったんじゃないかと思う。野老山が黛を愛するように、黛もまた野老山に師匠としての尊敬の念を送っているのに、彼はそれを聞いていたような様子はなかった。「彼は偽物だから意思はない。物語の外に出ることができた自分がやるしかない。」と思って突っ走ってしまっているのは「過保護」の表れで、過保護になりすぎるあまり、その保護対象である黛本人とのコミュニケーションがおろそかになってしまっているような気がしている。話を聞きたくても「それもまたプレイヤーから発せられる言葉なのだ」と感じてしまったりしたんじゃないだろうか。だから黛と純粋なコミュニケーションを取れないまま「.」に至ってしまった。また、「手段が目的になった」ことで、自分が持つ「愛情」の形すらあやふやになってしまったんじゃないかなという気はする。


 私自身他人の感情の深掘りが苦手なので、感情についての上記の話が曖昧なのは申し訳ない。以上が、私が野老山と鈴木悠理に感じた「同じようで決定的に違ったこと」、そしてそこから見る「野老山の固執」の深読みだ。


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