黛灰の物語について、気になる部分を考えてみる。
諸注意
・こちらの記事は、ぷらいべったーに記載していたものを自ら移植した記事です。
・黛灰の物語を一通り視聴した方向けです。
・筆者はパソコンに詳しいわけでもなければ、プログラムに詳しいわけでもありません。そのため、だいぶ直感的でにわかな知識もある深読みになってしまいます。筆者はかなりの楽観的ポジティブシンキングなので、解釈が合わない方もいると思います。
・思いついたことを取り留めも無く書いているので、途中で矛盾が生じたり、何を言っているのかわからなくなっていたりすると思います。
・全ての文章を他のサイトやアプリに転載(コピーアンドペースト)すること、また改変することを禁じます。一部分だけ引用する場合は必ずリンクを併記してください。
・黛灰の物語の性質上、直接的な名称を使わなければならないため、「中の人」「魂」などの単語自体に拒絶反応を示す人は読むことを推奨しません。
・2434systemという名称を他のライバーが使っていない場合は、2434systemを他のライバーの物語に持ち込むことは絶対にやめてください。
・「黛灰の物語」が、黛灰が主人公の物語で、黛灰自身が切り開いた物語であるように、他のライバーのストーリーもまた、そのライバーにしか持ちえない物語です。「同じグループを組んでいるから」「同じ世界観を持っているから」「物語に名前があるから」「みんな不穏だから」等の理由であっても、黛灰の物語の要素を用いて「黛がこうだったんだから仲の良いあの人も……」のような考えをするのは絶対にやめてください。
そのライバーはそのライバーで、黛は黛で、別々に考えるよう、よろしくお願いします。
前提
物語が終わった後、正直、TwitterのTLの空気は賛否両論という言葉が似合うくらい、意見がハッキリ分かれていた。
私はというと「終わった!よかった!ハッピー!物語が再開しない限りは平和ね!黛前向いてくれてウレシ!」とめちゃくちゃ喜んでいたので、みんながどうしてそんなに不安がっているのかが、正直全然わからなかった。
そこで、TLでこんなことを聞いてみた。
私は以前から、個人的に黛の物語についての時系列表+配信の要約記録を付けていた。
その関係もあって、「物語のどういう部分がもやもやしてるんだろう」という分析をしてみたくなったのである。
そして届いた意見としては、
・物語が今までに比べて、急に明るくハッピーなエンドになった。
・大衆が望んでいたような、望まれていたエンドになった。
・エンドロールのタイミング的に、黛が物語から解放された気がしなかった。
・回収されていない伏線があった。
などが多かった。
物語の筋書きや終わり方についてはまぁ予測しようがないが、「回収されていない伏線があった」の部分について、いくつか私自身の見解を出せそうな意見があったので、このタイミングで私の深読みを書き記しておこうと思う。
それと、「物語に名前が出ていたから」「同じグループでみんな不穏だから」という理由で未だ他のライバーと紐づけて不安がっている人がいるのも見かける。
物語は、一人一人が持っている特別なモノ、だと私は考えている。黛灰が黛灰自身で切り開いた道が「黛灰の物語」になったように、他のライバーが他のライバー自身の問題を解消し、道を切り開くことも「他のライバー自身の物語」だと考えている。
だからこそ、少しでも物語要素があった場合に「黛の次は…」とか「黛がこうだったから……」とは、あまり言うものではないんじゃないかな、と思っている。
そういう人たちの問題解消、不安の解消になればいいな、というのが私の願いだ。
物語に関わっていたライバーと物語の関係性
この話をするにあたって、一番のキーワードとなるのが「クロスオーバー」である。
配信で黛灰自身が言っていた通り、2434systemは異世界と異世界を繋げるシステムであり、他のライバーは他のライバーの世界にいる。そして、他のライバーも、黛同様、他のライバー自身の物語を、自分の世界に持っている。黛は、その異世界同士が交わってコラボしたりすることを「クロスオーバー」と表現していた。
普段のコラボでそれを考えるとちょっと想像がつきにくいかと思うが、これを物語の中に登場していたライバーにあてはめると、すごくすんなりと解釈しやすいんじゃないかな、と思った。そして、これでしっかりと「関係がない」と言えるのではないか、と私は考えている。それについて話していきたい。
まず先に、記録に名前が出る「加賀美ハヤト」について。私は、加賀美ハヤトの名前が記録にあることについては、正直言って本当にただの「過去の記録」であると考えている。
彼の配信スタイルを見るに、黛の物語のような物語性はない。黛は物語というプラットフォームでバーチャルを表していたが、黛とは逆に、歌というプラットフォームでバーチャルを表しているのが加賀美ハヤトだと私は考えている。
野老山も言っていた通り、この物語には他のライバーは一切関係がない。加賀美ハヤトは、施設絡みで関係があったと以前黛から明言されていたからこそ、事実関係として書類にも名前を記しておく必要があったのではないか。だから、それ以上でもそれ以下でもなく、本当に「そういう事実があった」という記録の為に名前が書かれていたのではないか、と考えた。記録に名前があったから同じ世界観にいる、というわけでもなくて、おそらく、デビューしてからは世界が完全にわかれたんじゃないかなと思う。
(ぶっちゃけ立ち位置的には、ゲームの探索で見つかる文書内でイースターエッグ的に差し込まれる他作品のキャラクターみたいな感じだと思っている。だから同じ時間を共有している~とかよりは、「同じ時間を途中までは共有していたけどデビューしてから時間軸が分かれた」という認識。)
次に、出雲霞、鈴木勝、鈴木悠理について。
私は、加賀美ハヤトとは違い、この3人は物語の中であったと考える。しかし、だからといって黛灰と同じように縛られているとはいえない。というよりかは、「物語の中にいるのが当たり前」の存在なのではないかと考えている。
そもそもとして、彼ら自身の物語は、彼らのチャンネル自体にある。そして、彼らの存在の仕方というのは、まさしく「フィクションから飛び出てきた存在」に近いんじゃないか、というのが私の見解である。3人は物語の中の存在で、物語の中の一要素として、配信というプラットフォームから話しかけてくる、というイメージだ。
しかし、「黛灰の物語」は「台本の中」を越えてからが本題となってくる。つまり、「物語の中」にいる3人には、物語の登場人物としては干渉しえない場所だったのではないか、と予測する。
だから、物語内で登場したライバーたちでさえも「この物語ではクロスオーバー的に登場するのみであり、物語に直接の関係はない」のではないかと考えている。物語に関係がない、というより、関われないから、だと私は考えた。少し無理矢理ではあるが、これが、私が「この物語にはどのライバーも一切関係がないと断言できる」見解である。
他のライバーの物語に関してもそうだ。いくら黛と関わりがある、物語に出てくるからとはいえ、黛灰の本筋である「黛灰の物語」は「停止した」と明言されている。そこを一度考えてみてほしい。(黛本人も二次創作ゲームをしたときに言っていたが、黛のキャラクター性は仮想空間にいるライバーにとって物語の導入や諸々においてめちゃくちゃ便利なことも踏まえて考えると良いと思う。)
立ち位置的には、「キングダムハーツ」に出てくる「ファイナルファンタジー」の出張キャラクターみたいなものじゃないかと考えている。物語に関わって力を貸してくれるが、そのキャラクター自身の物語は別の場所にあって、本筋の物語の核心には絶対に関われない、という立ち位置だ。
どこまでが台本で、どこまでが物語なのか
上記のことから連想するのは「じゃあ、どこまでが予測された物語なのか」「どこまで台本の上で、黛は本当に台本から解放されたのか」という点だと思う。
私は、物語の導入である「依頼」に関しては、物語の中だと考えている。この物語序盤、出雲霞鈴木勝などの別ライバーが関わってくる話はだいぶ説明が繊細になってしまう部分ではあるが、おそらく、「Have not」の際に師匠の手により二人と分断された瞬間に、「台本の外」というシナリオに切り替わったのではないか、と考える。
野老山は物語の外にいた。事実、2021/4/1までは、師匠の出ている配信は物語の再生リストに入れられてなかった。「Have not」発生当時は黛が勝くんと霞ちゃんとの通信を無理矢理切らされたのではないかと思っていたが、今考えると、逆に本当は「黛をおびき出して無理矢理本筋のシナリオから抜き出した」のではないか、と思った。よくよく考えてみると、この時を境にシナリオの毛色がガラッと変わっている印象を受ける。
じゃあこの二人はシナリオに縛られているのか、と考えるのは、お門違いになってしまうので気を付けてほしい。その部分に縛られているのは黛灰のみであり、彼らは「縛られている」というより「住んでいる」と私は思う。シナリオがあるということは悲しいことである、とは、一概には言えない。それに、上記で言った通り、おそらく登場しているライバーは「クロスオーバー」として登場している。だから、二人の本筋の物語と交わって考えるべきではないと考える。
話を本題に戻す。
本当のところ、どこまでが仕組まれていて、どこまでがプレイヤーの想定外だったのかは、終わった今としては想像のしようもない。この物語に、脚本集やメイキングなどは今のところないからである。
でも私は、「じゃあ全て筋書き通りなら、なぜエラーが起きたり、システムメッセージが黛によってハッキングされたりなどのことに対策が取れていないのだろう」と思う。もし全部予測できていたなら、全ての行動に対し先回りして対策すればいいだけの話だ。野老山の時の「センタクヲウバイカエセ」のように。
これは完全に私の感覚というか、勘なのだが、あのエンディングは正直、このように議論が交わされることを前提に作られているような気もする。あれをハッピーだと捉えるか、未だレールの上、あるいは操り糸の向けた方向の先だと捉えるのかは各々の解釈に任せる、という意味合いでの説明の無さを感じる。あるいは、エンド名の概要欄に「ここから先に、彼の物語はなく、あるのは彼の人生のみである。」と明言されているということも踏まえると、ぼくたちが考えすぎなだけかもしれない。だからこそ、この部分は結論の出ない部分だと考える。考えても堂々巡りになるような気がしている。
施設について
深読みする意見の中には「実は施設も、実験施設のようなものだったのでは?」という意見もあった。そう考えるからこそ、記録に名前が載っている「加賀美ハヤト」のことを不穏視してしまう声があったのではないかと、私は感じた。しかし私は「それは『施設』という言葉の響きが怪しげに聞こえるだけで、施設は本当にただの児童養護施設である」と感じている。
野老山がどうしてレイヤー構造に気付いたかは流石に分からないが、黛がこの世界のレイヤー構造に気付くには、2434systemを介して異世界に繋がることが必要不可欠であった。そしてそこにたどり着いた原因は、鈴木悠理からの依頼であり、施設は関わっていない。また野老山も、完全に施設の職員というよりは、職業指導、つまり学校で言う非常勤講師のような立ち位置だったのではないかと考えられる。そして、野老山がこの世界の構造に気付いたのも、おそらく専門分野の研究、あるいはインターネットの研究をしている最中などでの発見だったのではなかろうか。そう考えると、野老山が気付いたのも施設の外、黛が気付いたのも施設の外である。黛の世界の構造に気付いたのは、黛の世界では野老山と黛の二人だけであり、施設の人間や他の人間はレイヤー構造に気付いていないのが、物語での仕組みだった。
そして、先の話でも言ったことであるが、「物語の中にいるのが当たり前の人間は、おそらく台本の外のことに関与できない」と考えている。
だからこそ、「黛灰の出身の児童養護施設」という物語の役割しかあてられていない施設は、それより上の存在には手出しできない、気付けないものではないかと感じる。施設、というより、施設を含めた全世界の上に、プレイヤー、視聴者という上位存在、神様がいる、というのが私の認識である。だから、施設にはなんの裏もなく、ただ巻き込まれただけではないかと考える。
物語は続くのか
物語のその他の要素の話については、正直まだ「深読み妄想」くらいで確信を持てる情報がないため、ここではあまり書くことができない。
そして、年齢停止もわかったことで「まだ物語は続くのか…?」「不穏だ……」と思っている人も少なからずいると思う。しかし、私は「物語は『しばらくは』続かない」んじゃないかと思っている。
エンドロールが流れたということは、物語としての幕は閉じたということだと解釈していいと思う。「エンドロール」という形で明確に幕が閉じた以上、もしまた物語が始まるなら、何かしらの形で明らかに「幕を開けた」演出をするのではないか?と私は考えている。
今回の「年齢停止」はそのような「明確な」幕開けではない、と私は感じた。むしろ、物語が終わった後の代償?みたいなものが発覚したかのように、私は感じた。単刀直入に言えば、黛灰をバーチャルに残す、バーチャルな存在にさせる、と私たちが選んだから、彼は年齢が停止し、彼の世界の時間も止まったと思っている。
時間軸の仕組みについて。これはほぼ考察?みたいなものなのだが、年が増えるたびに黛の生まれ年も増えるなら、2020年の誕生日から同じ年(2020~2021年)をループし続けるのではなく、暦は進むが人物の年齢が変わらない、のではないのだろうか?例えば、物語終了時点(2021年)で施設の子供が13歳だった場合、生まれ年は2008年。次の誕生日(2022年)では、全員の生まれ年が更新され、その子の生まれ年は2009年で13歳のまま、という感じである。簡単に言えば、今までのシナリオをループするのではなく、物語内のすべての人物の肉体的成長、加えて黛以外の人間には記憶の更新がないという点で「時間が止まっている」という認識で、暦は進んでいる、と私は捉えている。だから、もう一度同じ物語が始まるというワケではないと考えている。暦を無視すれば、緩やかで平和で、何もかもがずっと変わらない同じ時間を過ごし続けることになるイメージだ。ただ、物質的なもの(子供たちが新しく描いた絵、新装開店する店など、日常の中で自ずと変わっていくもの また歴史なども)の変化に関しては、まだ読み取れない部分が多く、わからないことが多い。
ただ、それで悲観的になっているわけでもなくて、「バーチャルになれって私達リスナーが言ったんだからバーチャルになったんだし、そういうこともあるよね」と思っている。本人も今悲観的じゃないし、完全にバーチャルになることが悲しいことだとは限らないよな~~今は~~、みたいな考え方だ。
しかし、systemから「停止」と明記されている以上、「再開」される可能性は十分にある。先輩である霞ちゃんも、元々の物語が終わった後、デビューしてからの経験を元に新たに物語を創り出し、その結果「疑似的時間遡行」を行った。だからといって警戒するものでもないと思う。ずっと警戒したり、怯えたり、不安になって精神を摩耗してしまうのは、とても疲れてしまう。だからこそ、明らかな異変が来た時に怯えればいいのであって、彼自身は今楽しく生きているのだからそれでいいんじゃないかな、と私は思う。必要以上に疲れる必要はないのだから、疲れない推し方をするのが一番良いと思う。
最近、他のライバーでも、ライバーの過去を何かしらの形で垣間見ることができる機会が増えているように感じる。そこでよく見かけるのは「不穏」という言葉だ。しかし、ただライバーの過去を知るだけのことが「不穏」なのだろうか。「怖いこと」なのだろうか。「物語」とは「怖いこと」「暗いこと」なのだろうか。
どうしてその現象が起きているのか、ライバーの過去を知ることは「怖いこと」「暗いこと」なのか、ただ「不穏」で片づけるだけではなく、考えてみてほしい。そうすることで、より物語へ理解を深めることができるはずだと私は思う。
最後に
これは、未だ物語に不安要素を持っている人向けの気持ちで作った記事です。私は信じられないくらい楽観主義でポジティブシンキングの人間なので、「なにを暢気に言っているんだ!!!」と思う人もいると思います。それでもぜんぜん良いです。推し方人それぞれ十人十色ヨシ。読んでくれた何人かのそのうちさらに何人かの誰かの不安を取り除ける記事であったら嬉しいなと思います。わざわざ自分からしんどくなることないんだから、推しが楽しく生きてるうちは自分も楽しく推したいよね、と私は思っています。
考えることは、とても労力を使うことです。だけど、何かの現象に対し「怖い」と感じたなら、発信する前に「なぜそれを怖いと思ったか」を考えることも、自分の感情の分析になるし、現状の整理もすることができると思っています。他のライバーが関わっているかも……という深読みもそう。発信する前に、今までの情報を集めて、整理して、分析をすることも大事だと思います。ぜひとも色々な情報を集めて、多角的に情報を精査して、言葉の見え方を考えてもらえたらと思います。
文字をこれだけ書いたのは初めてなので、何か不備があったら申し訳ないです。
みんながそれぞれの折り合いの付け方で、物語との向き合い方を模索する一助になれば、幸いです。
うさぎ
noteへの投稿は初めてなので、何か問題などあれば、マシュマロにご一報ください…!