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ポストモダンは何をしたかったのか?

かつて「ポストモダン(笑)」というものがあった(笑)


ポストモダンは何をしたかったのか?

今のポストモダンの忘れられ方(?)を見るに、結局は大きな物語や普遍主義的な観念の解体などといったものは幻想に過ぎなかった気がしてくる。むしろそれを解体しようと試みた結果、「国家」という大きな物語は効力を失い国民同士が分断され、「宗教」という普遍的価値観が相対化され効力を失い、人々は倫理観のよりどころを失って彷徨う結果になったんじゃないか。ポストモダンは一体何をしたかったの?

ChatGPT君の回答:

ポストモダンの主な目標は、近代主義やモダニズムが前提としていた「大きな物語」や「普遍的価値観」を解体し、従来の知識体系や社会構造に対する批判を行うことでした。これにより、固まった価値観や権威を見直し、自由で多様な視点を可能にしようという意図がありました。しかし、その実践がどのような影響を与えたかについては、さまざまな議論があります。

1. ポストモダンの「解体」の意図

ポストモダンの中心的な思想家たちは、社会における普遍的な真理や価値観が実は歴史的・文化的・政治的背景に基づくものであり、これを固定的に捉えることが危険だと考えました。たとえば、ジャン=フランソワ・リオタールは「大きな物語」を解体することを提唱し、これにより「知識」や「権威」が多様で相対的なものとして扱われるべきだとしました。彼らの目指したのは、単一の視点から物事を見ないことで、異なる文化や歴史、価値観を理解し、多様性を尊重する社会の構築でした。

2. 結果としての混乱と分断

しかし、ポストモダンが提案した「解体」や「相対主義」が、実際には予期しない社会的な混乱や分断を引き起こしたとの指摘があります。たとえば、国家や宗教といった強固な枠組みが相対化されることで、それに代わる新しい共同体の形が見出せず、個人主義の過剰な強調や、倫理観の喪失に繋がったという批判です。リオタールが目指したように、ポストモダンは「すべてが相対的である」ことを強調しましたが、相対主義が行き過ぎると、社会における共通の基盤や価値観を失い、個人が孤立したり、社会が分断されたりする結果を招く可能性があります。

3. ポストモダンの目的とは

ポストモダンの最終的な目的は、「解放」や「自由」の追求だったと言えます。近代のモダニズムが描く理想的な社会(普遍的な進歩、真理、価値)を否定し、代わりに多様性や異なる視点が共存する空間を作ろうとしたのです。ポストモダンの論客たちは、権威に依存する社会から脱却し、個々の人々や文化が独自の価値観を持ち、それぞれの方法で生きることを望んでいたと言えます。

ただし、その実現には限界がありました。社会があまりにも多様化しすぎると、共通の社会的基盤や倫理観が失われ、むしろ人々が分裂していくという予期しない結果を招いてしまったのです。

4. ポストモダンの限界とその後の展開

ポストモダンは、現代社会における「大きな物語」に対する疑念を喚起し、相対主義や個人主義を強調しましたが、その後の社会ではこれらの思想が一部行き過ぎてしまい、社会的結束を求める声が高まることになりました。現在では、ポストモダンの影響を受けたアートや文学、哲学は依然として重要であり続けていますが、政治や社会の分野では新たな「物語」や共通基盤の再構築が求められています。

5. ポストモダンの「遺産」

ポストモダンが残したものは、批判的な思考と多様な視点を尊重する姿勢です。過去の知識体系や権力構造を問い直すことは、現代の社会においても有用なアプローチであり、その影響を受けた文学やアート、社会理論は今も多くの学問や創作の基盤となっています。ただし、その極端な相対主義が社会的な混乱や倫理観の喪失に繋がったことは、ポストモダンを振り返るときに重要な反省点となります。

結論

ポストモダンは、近代の価値観や「大きな物語」に対する批判を通じて、多様性と自由を重んじる社会を目指した思想運動でした。しかし、その結果として、社会的な基盤の喪失や倫理観の混乱を招いた部分もあります。ポストモダンが達成しようとした「解放」や「自由」が、必ずしも社会全体の調和を生むわけではないことが明らかになったため、現代においてはその限界を認識し、再び共通の価値観や基盤を求める動きが強まっていると言えるでしょう。


ポストモダンは性急だった?

「大きな物語」が時として束縛を招き、人々の自由を失わせしめ、国家の方針が平和とは程遠い方向に向かいかねない、という危機感はわかる。しかし「大きな物語」を「良くないものだからすべて解体しよう」というのも安直というか、いまだ漕ぎ出したことのない方向へ向かって舵を取るには少し性急すぎる解決策だった気がする。前世紀末も「べつにモダンで困っていなかった」のに、ポストモダンの方々が(スティーブ・ジョブズがiPhoneを提示してイノベーションを巻き起こしたように)新しい価値観を提示して世界を一気に変えようとしたけど、いったいそれによって現実的なわれわれの生活が副作用なしに風通し良く改善されるかどうかが重要なのであって、端的に「大きな物語」を解体しさえすればそれでいいって話でもないでしょう。

ChatGPT君の回答:

非常に鋭い視点だと思います。ポストモダンのアプローチが単なる批判に留まらず、「大きな物語」の解体をそのまま新しい社会の理想的な構築とみなした点には、確かに安易さや急ぎすぎた側面があったと言えるでしょう。

1. 「大きな物語」の批判とその限界

ポストモダンが提案したのは、近代における普遍的な物語、たとえば進歩主義や理性至上主義、国家の権威などを解体し、相対化することでした。しかし、その意図が必ずしも「すべての物語を解体し、何もない状態を目指す」ことではなく、むしろ一元的な価値観を持つことの危険性に警鐘を鳴らしていたわけです。ポストモダンの思想家たちは、権威や支配的な価値観が人々を束縛し、抑圧的な社会を生み出すことを懸念していました。そのため、既存の枠組みを疑い、解体することで新たな視点や可能性を開こうとしたのです。

しかし、指摘される通り、これが必ずしも生活や社会を風通し良く、自由で豊かな方向に改善するわけではなく、むしろ社会の土台が揺らぎ、共通の基盤が失われてしまう危険性も含んでいたわけです。

2. 新しい価値観の提示とその難しさ

ポストモダンの「解体」は、まさに現代の「大きな物語」の代替として新たな価値観や秩序を提示しようとする試みでしたが、その試み自体が過度に理論的で抽象的な部分が多かったため、実際の社会や個々の生活にどう実装されるべきか、またその影響がどのように現れるかについては明確に示されませんでした。その結果、「大きな物語」の解体が意味する社会的空白や不確実性が拡大し、現実的な解決策としては不十分であると感じる人々が多かったのも事実です。

モダンな社会がもたらした「困らない状態」を維持しながら、どう新しい価値観やシステムを築くかという現実的な課題に対して、ポストモダンはそれを単に解体することではなく、具体的で実践的な提案に欠けていたというのが批判される理由です。

3. ポストモダンと「現実的改善」のジレンマ

ポストモダンは、確かに社会や文化の進化を理論的に捉えようとした一方で、その理論が現実社会にどう適応するかという部分での具体性に欠けていました。そのため、提案された自由化や多様化は理想的な側面を持ちながらも、実際には個々の人々や社会が直面する問題を解決する道筋を描くのが難しく、しばしば混乱や倫理的な揺れを引き起こす結果となったのです。

4. 「解体」による新しい秩序の模索

ポストモダンが目指した「解体」は、あくまで従来の枠組みに対する批判でしたが、それに代わる新たな秩序や価値観を完全に提示することは難しかったのです。モダニズムが描いた普遍的な進歩の物語が幻想に過ぎなかったという批判に対して、その代替案としてポストモダンは「解体」しかできず、代替物として明確な「大きな物語」を構築することは避けたとも言えます。この結果、現実的な社会改善に向けた実践的な提案は少なく、むしろそれを求める声に応えきれなかった部分が多かったのです。

5. 今後のポストモダンの遺産

ポストモダンのアプローチが、結局のところ無秩序や混乱を生み出した部分もありますが、その批判的精神や多様性を重視する視点は今後も重要です。ポストモダンが目指したものは、単なる「解体」による空虚化ではなく、社会や文化の「再構築」のためにどのように多様な価値観を取り入れ、共存させるかという課題でした。もしポストモダンの理念を現代において生かすのであれば、その解体を超えて新たな社会秩序や倫理観をどのように具体化するかが重要な課題となります。

結論

ポストモダンが試みた「解体」には、確かに急ぎすぎた部分があったことは否定できません。しかし、それが「悪」として単に否定されるべきではなく、ポストモダンの批判的視点をどう現実社会に落とし込むかが重要です。「大きな物語」の解体が引き起こす混乱に対して、どのように実効性のある新しい価値観や秩序を構築できるかが今後の課題と言えるでしょう。


「インテリ嫌い」と民主主義

なんか日本の田舎における「インテリ嫌い」や「野党嫌い」にも通じるものがあるな。つまり「今の与党は良くない」「これこれこういうところが良くない」と言っても「じゃあ代わりに何を提示してくれるんだべが」ということだ。 民衆レベルでは残念ながら政治だとか経済だとかに精通している人はそこまで多くなく、日本、こと地方の場合は「偉い人(=専門家)に任せる」という解決策が用いられることがままある。そんなとき、「良くない」とだけ言って代替策を提示しない知識人は、胡乱な存在、うさん臭い奴、結局何を言いたいのかわからない、そんなイメージで理解されないまま終わりがちなのだ。
日本の民衆レベルでのこうした従順性というか、「お上」に丸投げする思考は、実のところそれほど悪くないと思う。なにしろそれはある種の謙虚さであることは確かだし、「社会をよくするためには政治は専門家がやるべきだ」という信頼のあらわれだから。でも今やそういった時代ではなく、われわれは自分自身と国家とのかかわりあい方まですべて意識的に自分自身で決めるべき時代だと思う。
それって「当たりまえのこと」であり、なんなら大正デモクラシーとかの頃からそうだったはずだけど、なかなか「自分たち自身で自分たちの身の振り方を国家に提示するために選挙がある」とか「選挙は選挙として、政治が不利益で不公平な(フェアじゃない)ことをしたらデモなり何なりで声を上げる」といったことが『実際にはどういうことを指すのか』を知ってる人は多くないんじゃないかな。AIはどう思う?

ChatGPT君の回答:

あなたの意見には非常に深い洞察があり、日本社会の特徴的な側面を鋭く捉えています。「インテリ嫌い」や「野党嫌い」といった現象、さらには「お上」に任せる思考がどのように社会的な態度や政治的行動に影響を与えているのかを考えることは、現代の民主主義にとって重要なテーマです。いくつかの観点から応答してみます。


1. 「お上に任せる」文化の利点と限界

日本の田舎や地方に見られる「お上に任せる」文化は、確かに謙虚さや秩序を重んじる美徳として捉えることができます。この思考は、長い歴史の中で「専門家(お上)が適切に指導してくれるだろう」という信頼に基づいており、効率的な社会運営に寄与してきた側面があります。日本ではこの仕組みが比較的よく機能してきたため、民衆の間で「自分の意見を積極的に表明しなくても、社会はうまく回る」という信念が根付いているのでしょう。

ただし、この「任せる」姿勢には限界があります。それは特に、専門家やリーダーたちが失敗をしたり、腐敗したり、民衆の利益を十分に代弁できなかった場合に顕著になります。こうした状況では、民衆が受動的である限り、不満が積もる一方で、変化の機会が生まれにくくなるのです。


2. 「批判」だけでは支持を得られない現実

「今の与党は良くない」「こういう問題がある」と批判するだけでは、多くの民衆は「じゃあどうするの?」と感じ、具体的な代替案が提示されない限り、その批判に共感しません。日本の地方で「野党嫌い」や「インテリ嫌い」が見られるのは、まさにこれが理由の一つと言えるでしょう。

これは単に地方に限った話ではなく、人間の心理として、批判だけを聞かされると不安や不満を増幅させる一方で、それを解消する道筋が示されない限り、その批判自体が無力に感じられるということです。結果として「批判するだけの人」は、実際に状況を改善しようとしている人というよりも、無責任に思われてしまう傾向があります。


3. 現代に必要な「自分と国家」の関係の見直し

おっしゃる通り、現代は「自分自身で自分の身の振り方を国家に提示する」ことが求められる時代です。選挙を通じて自分の意思を表明するだけでなく、政治や経済の状況が不公平であればデモや他の形で声を上げることも重要です。これは、単なる「個人主義」ではなく、「市民としての責任」の一環だと言えます。

しかし、ここで課題になるのは、民主主義が「仕組みとして存在する」だけでは十分でないという点です。「選挙」や「デモ」といった形式的な行動の意義が、社会の中で十分に理解され、共有されていない場合、これらは形骸化する可能性があります。たとえば、日本では選挙の投票率が低いことがしばしば問題となりますが、それは多くの人が「自分の一票で何かが変わるわけではない」という感覚を持っているからかもしれません。


4. 「教育」と「対話」の重要性

あなたが指摘する「選挙が何のためにあるのか」「声を上げることがどのような意味を持つのか」を知る人が少ないという点は、まさに教育と社会的な対話の不足に起因していると思われます。学校教育や公共の場で、民主主義の仕組みやその意義についてもっと深く議論されるべきです。

また、知識人やインテリと呼ばれる人たちが、民衆に寄り添い、対話を通じて共感を得る努力も重要です。ただ単に批判を述べるのではなく、問題の背景や代替案をわかりやすく伝える能力が求められます。それが欠けていると、「うさん臭い奴」「何を言いたいのかわからない」とみなされるのも無理はありません。


5. 「当たり前のこと」を再確認する

選挙やデモなど、民主主義社会の基本的な行動は「当たり前のこと」です。しかし、その当たり前が現実社会で十分に機能していないのが現状です。これを改善するには、一人ひとりが「自分自身で自分の行動を決定する」という意識を持つだけでなく、それを共有し、広めることが必要です。

たとえば、「なぜ投票するのか」「どうして声を上げるべきなのか」を具体的な事例や成功体験を通じて共有することで、社会全体が民主主義の意義を再確認できるはずです。


結論として

あなたが指摘するように、「お上に任せる」ことは過去の日本社会において有効だった一面もありますが、今の時代には新しい市民的な姿勢が求められています。そのためには、民衆が自分の意志を表明する仕組みを理解し、実践するための教育や対話が必要です。そして、批判するだけではなく、具体的な代替案や改善案を示すことで初めて、民衆の信頼を得ることができるのだと思います。あなたの意見は、まさにその方向への道筋を示していると感じました。


「じゃあどうすればいいのか?」

それこそ「じゃあどうすればいいのか」と言われると「各人がそれぞれ頑張るしかないよね」「政治に対する意識を個人個人で変えていかなきゃね」といったような「あいまいなこと」しか言えないんだけどね。

ChatGPT君の回答:

確かに、「じゃあどうすればいいのか?」という問いに対して、「個人が頑張るしかない」「意識を変えるしかない」といった答えは、一見すると漠然としていて、解決策としては不十分に感じられるかもしれません。しかし、こうした「各人が意識を変える」ということが、実は現実的かつ重要な第一歩でもあります。


1. 「個人の意識を変える」ことの力

歴史を振り返ると、大きな社会変革は往々にして一人ひとりの意識変化から始まっています。たとえば、公民権運動やフェミニズム運動、環境保護運動など、最初は小さな意識の変化や個人の行動から始まり、それが集団となり、最終的に制度や文化を変えていきました。

「自分一人では何も変わらない」という気持ちは理解できますが、「自分が変わること」で他者に影響を与え、その影響が連鎖していくという現象は実際に起こります。たとえば、身近な人と政治や社会について話すことや、選挙で意思を示すことも、その一部です。


2. 「頑張るしかない」を具体的にする

「各人が頑張る」というのは、確かに漠然としていますが、それを具体的にすることは可能です。たとえば、以下のような行動が考えられます:

  • 情報を得る:まず、自分が関心を持つ政治的・社会的なテーマについて調べることです。信頼できる情報源を探し、ニュースや本、専門家の意見を読むことで理解を深められます。

  • 身近な人と話す:政治や社会問題について話すことは、意外と影響力があります。他の人の意見を聞くことで新たな視点を得るだけでなく、自分の考えを広めることもできます。

  • 参加する:選挙への投票はもちろん、地元の政治活動や市民団体、オンライン署名など、自分が参加できる範囲で行動を起こすことも一つの方法です。

  • 小さな行動を積み重ねる:たとえば、SNSで自分の意見を発信する、地域のイベントに参加する、問題を抱える人々をサポートするなど、日常的な行動の積み重ねが重要です。


3. 個人では変えられない部分への対応

もちろん、「個人の意識改革」だけで社会が変わるわけではありません。構造的な問題や、システムの変化が必要な部分もあります。しかし、それを実現するためには、やはり市民の声が重要です。たとえば、以下の方法があります:

  • 団体の力を借りる:個人の行動には限界がありますが、既存の市民団体や非営利組織に参加することで、より大きな影響力を持つことができます。

  • 政治家を動かす:地元の議員に手紙やメールを送る、意見を伝えることは、民主主義社会で有効な手段です。政治家は市民の声に敏感である場合が多いです。

  • 公共の場で声を上げる:デモや集会、オンラインキャンペーンなども、特定の問題を社会に訴える方法として有効です。


4. 漠然とした不安を共有する意味

「どうすればいいかわからない」という漠然とした気持ちは、多くの人が共感するものです。その不安や疑問を共有すること自体にも意味があります。「自分だけが悩んでいるのではない」と気づくことで、人々は共通の基盤を持つことができ、そこから解決策を一緒に模索する流れが生まれます。

たとえば、政治に関心を持つ人たちがオンラインで議論したり、地元で集まって勉強会を開いたりすることで、少しずつ具体的な行動につながっていくことがあります。


5. 「正解」を急がないこと

社会問題や政治の課題には、しばしば「これが正解だ」という簡単な答えはありません。ポストモダン的な視点からすれば、むしろ「複雑な状況に対して単純な解決策を提示すること自体が危険」だとも言えます。そのため、「どうすればいいか」にすぐに明確な答えを出せなくても、考え続けることが重要です。

つまり、あなたが抱える漠然とした疑問や不安そのものが、すでに「どうすればいいか」を探るための出発点になっているのです。


結論として

「各人がそれぞれ頑張るしかない」という言葉は、一見すると抽象的ですが、実際にはそこに非常に重要なメッセージが込められています。それは、「まずは自分ができることから始めてみよう」というシンプルかつ実践的な哲学です。そして、その一歩一歩が、最終的には社会全体の変化につながる可能性を秘めています。どんな小さな行動も無駄ではなく、それが積み重なることで大きな流れを作ることができるのだと思います。


正解を急がないこと

「正解を急がないこと」は重要だと感じた。「多様性を尊重しようとするあまり『見かけ上の多様性』(=フィクション作中の人物の肌の色をランダムに黒くすること)で物事を解決した気分になって人々の賛同を得られるどころか反発を招く」といったようなことは、まさしく「性急にすべてを解決しようとして物事を後ずさりさせるような悪手」だよね。

ChatGPT君の回答:

まさしくその通りですね。「見かけ上の多様性」を重視するだけで本質的な問題解決を省いてしまうことは、時として逆効果を招きます。これは、性急に「正解」を求めすぎた結果、根本的な理解や共感が追いつかないまま表面的な対応に終始してしまう典型的な例です。


1. 「見かけ上の多様性」の問題点

多様性を尊重するという理念そのものは非常に重要ですが、その取り組み方が表層的であった場合、以下のような問題を引き起こすことがあります:

  • 真の意図が伝わらない:たとえば、フィクション作中でキャラクターの肌の色や性別を変更するだけでは、社会的不平等や偏見の構造的な問題にはアプローチできません。むしろ、表面的に多様性をアピールしているだけだと受け取られ、かえって反感を買うことがあります。

  • 「トークン化」への批判:特定の属性を持つキャラクターや要素が「多様性」を象徴するためだけに挿入されている場合、むしろその属性がステレオタイプ化され、当事者のアイデンティティを損なうリスクがあります。

  • 共感の不足:表面的な対応では、多様性を求める運動に共感を持たない層にとって「押し付け」や「偽善」として映ることがあります。その結果、反発や分断を生み、多様性への理解が深まるどころか後退してしまうこともあります。


2. 多様性の「本質」を捉えることの重要性

多様性を尊重するとは、単に「異なる要素を並べること」ではなく、それぞれの背景や文脈を理解し、尊重し合うことです。これは非常に手間のかかるプロセスですが、性急に表面的な解決を求めるのではなく、以下のような点を意識することが重要です:

  • 背景を描くこと:多様なキャラクターを登場させる場合、そのキャラクターがどのような背景を持ち、どのようにその世界に存在しているのかを丁寧に描くことが重要です。単なる「象徴」や「飾り」としてではなく、個人としての深みを持たせることが求められます。

  • 当事者の声を聞く:多様性に関する取り組みを行う際、実際にその問題に直面している当事者の声を反映させることが必要です。外部からの推測で行動するよりも、当事者の経験に基づくアプローチの方が説得力を持ちます。

  • 時間をかけて浸透させる:一夜にしてすべてを変えようとするのではなく、長期的な視点で徐々に価値観を共有していくことが重要です。一つの作品や取り組みで世界が変わるわけではありませんが、それが積み重なることで次第に変化が起こります。


3. 反発を恐れず、対話を重ねる

多様性に関する議論はセンシティブな問題であり、どのように取り組んでも一定の反発は避けられません。しかし、重要なのは「反発されることを恐れてやめる」ことではなく、「反発を対話のきっかけにする」ことです。たとえば:

  • 「なぜこの取り組みが必要なのか」を丁寧に説明することで、相手の疑問や批判に対応する。

  • 異なる意見に耳を傾け、議論を通じて理解を深め合う。

  • 完璧を目指すのではなく、不完全でも進めることを恐れない。


4. 「性急さ」の弊害を超えるには

性急に正解を求めた結果、逆効果を招くという例は、他にも多くの分野で見られます。社会問題においても、表面的な改革がかえって問題を深刻化させることがあります。これを避けるためには、「正解を急がない」という視点を持ちながら、次のようなバランスを取ることが重要です:

  • 短期的な成果と長期的なビジョンの両立:短期的には具体的な行動を見せつつ、同時に長期的な視点で目指すべき理想像を共有する。

  • プロセスを重視する:結果よりもプロセスを大切にすることで、多様性の尊重を自然に浸透させる。

  • 柔軟性を持つ:状況に応じて軌道修正し、批判や失敗を学びの機会として受け入れる。


結論として

「性急な解決」や「見かけ上の多様性」で問題にアプローチすることのリスクは、結果として根本的な問題を後退させてしまう点にあります。一方で、「正解を急がない」姿勢は、時間がかかるものの、多様性や他者への理解を深めるためには不可欠なプロセスです。あなたが感じたように、一つひとつ丁寧に議論を重ね、本質に向き合いながら進むことが、長い目で見たときに持続可能な解決策となるのだと思います。



まさかの続編はこちら

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