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ケダモノ喰いの青(完全版)

それを蜪犬とうけんと言う。
身の丈は5尺近く。犬の形をした妖魔で、全身が青く人を食う。
男は、虎の顎でその一頭の頸椎を砕き、次いでもう一頭を虎の爪で裂いた。
しかめた顔の目より上は人間で、不快そうに眉根を寄せるとべっと残骸を吐き捨てた。
『童、誰そ彼時に山に入るなと教わらなんだか』
「……」
廃寺の軒先、妖魔に襲われかけた黒髪の少女が震えている。
『口がきけぬか?』
「あ、ありが」
『ケダモノ同士の縄張り争いだ。礼などよせ。何があった』
「村に妖魔が、群れで、逃げて、兄様が、戻るって」
虎の男は竹筒の水で口を濯ぎ、残りを少女に差し出した。
要領を得ぬが、蜪犬の群れが村を襲い、兄妹でここまで逃げた。妹を隠し、兄は救援に戻った。そんなところか。
『残ったはお前一人か。残念なことよ』
「あ、兄はきっと生きております。どうか、兄をお救いください」
水を飲んで多少は混乱も収まったのか、少女は頭を下げて請う。
男は呆れた。
『ケダモノに助けを請うとは愚かな。連中は貪欲だ。今からでは食いさしも見つかるまい。』
「どうか。お礼は必ずいたします」
日が沈む。鴉が鳴く。少女は頭を上げない。
『……ふう。生き残りをむざむざ食われるも癪か。頭を上げよ』
「あ、ありがとうございま」
ぞぶり、と、虎の顎が少女の頭を半分にした。存分に咀嚼し、飲み込む。
『礼などよせと言ったろう』
奪い合われる獲物が狩人に礼を言うなどと。
二口、三口、そして、四口目の前に邪魔が入った。

背後からの不意打ちは難なく弾かれた。
「アアア嗚呼!サヤ!」
転がされた青髪の青年は間髪入れず立ち上がる。
『この子の兄か。無事で何よりだ。が……その青い髪、ははあ、食らったか!これはいい!』
「殺す!」
『いきり立つな同類。私は窮奇という。妖魔は不味かったろう?口直しにどうだ?』
そう言って妹の脚を差し出す窮奇に青年は再び襲い掛かる。人ではあり得ない速度と力で。四つ足で駆ける姿は青い犬のようだった。


脚も腕も軽い。
麓から駆け登ってきた直後だというのに、体は自由に動いた。
手足を使って低く駆け、身長よりも高く跳ねた。
だが、そうして繰り出した拳も蹴りも、窮奇には軽くあしらわれる。
「ふっふっ……ふーっ!」
八度転がされ、流石に息が上がった。肩で息をしながら窮奇を睨む。
『やれやれ、ようやっと話ができる。さあて、何から話したものか。ははあ、そうだ。まずはこれを聞かねばな。お前、名は何という?』
にや、と意地悪く口元を歪めての問いに、青年は答えなかった。否、答えることができなかった。答えを持っていなかった。
「俺は……俺の名は……?」
そんなはずはない。名前はあった。父に、母に、友人に、名を呼ばれて暮らしていたのだ。だが、どうしても分からない。頭の中には、引き出しが開かないのではなく、引き出しそのものが永遠に失われたのだという確信がある。
『はは、意地悪いことを問うたな。まあ、我らはそういうものだ。まず名を失う。知り合いに問えば分かろうが、あー、お前の場合は無理そうだな。すまぬ』
名を知る最後の一人を殺した男の軽薄な謝罪に、怒りの突進をもって応える。
「アアアアア!!ぐっ!!」
窮奇は突き出された腕を難なく掴み、その勢いでもって青年を地面に叩きつける。
さらに、立ち上がるべく胴が浮き上がるのを待ってから、虎脚をその背に叩きつけた。
「ぐあっ!離…せ!」
青年はもがくが、その膂力は生半なものでなく、乗せられた脚は揺らがない。
『何の話だったか。そうだ、名前だ。名無しではこちらとしても不便。さて……』
地面に爪を立て、渾身の力でわずかに胴を持ち上げるが、次の瞬間には更なる力で地に戻される。
あお。今日からお前はあおだ。分かりやすくていいだろう』
何を勝手な、と思ったが、その名は呪いのようにすとんと空白に収まった。
『では青、妹の名は覚えているか?父や母の名はどうだ?』
今度は答えることができた。
「父は束治つかじ!母はみね!お前が殺した妹はさやだ!殺してやる!」
『なるほど。大して喰っておらんな。弱いわけだ』
「何だと!?」
『喰うほどに妖魔に近づき、喰うほどに人から外れる。お前は少しばかりを喰って名を失くした。さらに喰えば何を失くすか、分かるだろう?』
虎脚の圧に抵抗しながら、窮奇の話は真実だと青は理解した。今頃になって、自分がすっかり変異したことも自覚した。そして、次に失くすものの確信があった。
『さて、青よ。これからどうする?お前も知っておろうが、妖魔の肉は臭くて不味い。飢えていても食えぬほどよ。それはお前も、いや我らの肉も同じこと。故に、私はお前を食わぬ。大人しくついてくるなら我らの世界を案内してやってもよいが、どうだ?』
「オ」
『ん?』
「オオオオォオオオォオ!!!!」
青は吠えた。地に伏せたまま、大音声で吠えた。
木々が震え、遠くでギャアギャアと叫びながら鴉が逃げていく。
窮奇は目をぱちくりとさせ、驚いた顔で青を見たが、脚に込めた力は寸分たりとも抜かなかった。
『驚くじゃないか。気は済んだか?』
「まだだ」


「まだだ」
青の言葉を合図に、茂みから蜪犬とうけんが飛び出した。一頭、二頭、三頭……次々と現れては窮奇へ襲い掛かる。この程度でやられる窮奇ではなかったが、流石に青を踏んだままというわけにはいかない。青が逃げる。そのまま蜪犬の青い群れに紛れて見えなくなった。
『ははあ、なるほど。確かに蜪犬は群れで狩る妖魔だ。先ほどの遠吠えで仲間を呼んだか。妖魔らしくなったじゃないか』
窮奇は感心しつつ、淡々と蜪犬を殺していく。裂き、殴り、踏み潰す。時折、窮奇の腕や脚に噛みつくものもいたが、蜪犬の牙では虎の毛皮を抜けず、そのまま首を折られて死んでいった。
『どうした青!来ないのか!?仲間がどんどん死んでいくぞ!』
右からの一頭を蹴り飛ばし、正面から飛びかかるとりわけ大きな一頭を迎え撃とうとしたその時だった。
向かってくる蜪犬が二つに裂け、蜪犬を裂いた爪は勢いのまま窮奇の右肩を抉り、背後に抜けていった。致命ではないが、傷は深い。
『ぐううう!』
呻きながら振り返ると、そこに青がいた。
『青か!やるじゃあないか!私に殺させた蜪犬を喰らったな!』
青の容貌は随分と変わっていた。髪の青は一層深くなり、その頭には犬の耳が生えている。腰からはふさふさとした青色の尾が生え、右腕は上腕の半ばから青い毛皮に覆われて太い獣の腕になっていた。腕の先には小刀ほどもある爪が生え揃い、今は真っ赤な血に濡れている。
『随分と喰ったものだ。それで?私を殺すのか?』
「お前を殺す」
窮奇を見つめる青い瞳には、最早怒りも恨みもなく、透き通った殺意だけが伝わって来る。
『はは、ようく思い出すがいい。私がお前に何をした?私を殺す理由が今のお前にあるのかね?』
青は微かに首を傾げ、それでも視線を外さない。
「お前が何をしたのか知らない。殺す理由もない。だがお前は殺す。妖魔は悉く殺す。それだけは覚えている。だから殺す」
弓を引くように青が右腕を構える。
蜪犬の群は戸惑うように距離を取り、二人を遠巻きに囲んでいる。
包囲を破ろうとすればその隙を青は逃さないだろう。
窮奇の右腕は半ばまで抉られ、肩より先に感覚はなく、ほとんど千切れかけている。
状況を確認すると、窮奇は唐突に自らの右腕を引き千切り、勢いのまま青の顔めがけ投げつけた。と同時に自らも動く。青の武器は右腕のみ。投げつけた腕にどう対応しようと隙ができるはず。
だが、青は迷わず飛び出した。低く低く駆け、窮奇の右腕をくぐると、地面すれすれの軌道を描いて右手の爪を突き上げる。五本の爪は、肋骨の下から入り、窮奇の心臓を鷲掴みにした。

ごぼ、と窮奇が血を吐いた。
『やれやれ、名付け親に、酷い、ことを、する』
「……」
『これから、どうする。あの蜪犬どもも、殺す、のか』
「殺す」
『その後、は』
「妖魔を探して殺す。妖魔は悉く殺す」
『もう、理由も忘れたのに、か』
「関係ない。殺す」
『くくく、狂人、め。なら、名付けの礼、と思って、二つ、私の言うことを、きけ』
「……」
『一つ、そこに転がっている、人間の亡骸を、お前は、食うな。食わずに、埋めろ』
「……誰の死体か知らんが、いいだろう」
『二つ、ふっ、ふはは!どうせなら!私のことも、喰っていけ!』
ぐしゃり、と湿った音をさせ、窮奇の心臓を引き抜いた。
噛み付くと、悍ましい臭いと味が口いっぱいに広がって吐き気がする。それでも青は、吐き気に耐えて窮奇の心臓を飲み込んだ。
青い右腕にうっすらと虎の模様が浮かぶ。
その右腕を構え、青は蜪犬の群へ歩みを進める。

「次は、お前たちを殺す」

△終わり△


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