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俺が死んだら絶対、恋をしろ。/『三岸好太郎・節子展』ーArtとTalk⑭ー

休日、美術館を3つハシゴしようと企んでいたのに寝坊して、結果的に2つしか観られず、予約の関係で行く順番も計画とは逆になってしまった。

でもそれで良かった。

この展示を観たあとは胸いっぱいで、他の展覧会にはきっと行けなくなっていただろうから。



(今回のArtとTalkはエッセイ形式でお送りします。)


唯一無二の画家夫婦

愛知県の一宮市三岸節子記念美術館。行きたいとずっと思いつつ今回が初めての訪問になる。駅から離れているけれど、バスが目の前まで連れてってくれるので移動は楽だった。

『貝殻旅行―三岸好太郎・節子展―』。名前や作品は朧げに知っていたが、浅学の私はふたりの経歴をほとんど知らぬまま会場に入った。平日の夕方、観覧者は私の他に数人。その彼らも、入り口の紹介文を私が熟読している間に別の展示室へ移動していた。

―独自のロマンティックな世界を描いた夭折の画家・三岸好太郎は、女子美術学校に通っていた三岸節子(旧姓 吉田節子)に恋をする。熱心な好太郎に節子もだんだんと惹かれてゆき、好太郎21歳、節子19歳のときふたりは結婚。3人の子どもを授かる。ともに画業に励みながらの生活が10年続いたころ、自身の描いた《のんびり貝》が大手化粧品会社社長に売れて機嫌を良くした好太郎は、節子を夫婦水入らずの「貝殻旅行」と称した旅に誘う。楽しい旅の帰路、好太郎は節子をひとりで東京に帰し名古屋にとどまる。その数日後、持病の胃潰瘍が悪化し、好太郎は享年31歳で蝶のように飛び立った―。


好太郎

入り口でこの壮絶な経緯を読み、私の心はすっかりふたりに掴まれた。しかし、壁に並ぶ好太郎の初期の作品に目を向けると、それらが強烈な才能を感じさせるものばかりとは必ずしも言えず戸惑った。私の目がおかしいのかと疑ったが、添えられたキャプションにも「独学の好太郎は堂々とヘタウマぶりを発揮していた」とある。思わず笑った。

好太郎の凄さはその吸収力と類まれな柔軟性にあると思う。年代を追うごとに、世界的に有名な画風や前衛芸術を貪欲に取り入れて好太郎の絵は目まぐるしく変化していく。筆を握る人間が自分の画風を変えるというのは存外難しい。クセもあれば拘りもあり、変化が成長であることを頭でいくら分かっても手が受けつけない。それを好太郎は短期間で、まさに生き急ぐようにやってのけたのを展示室を横切りながら体感した。

好太郎はなぜか、「30歳を過ぎれば死ぬ」という自己暗示にとりつかれていたという。「僕の生命線はあと一週間で切れている」と旅先で語り、言葉通りに死んだ。


節子

好太郎の絵の並びが途切れ、そこから節子の章に切り替わる。結婚後3人の子どもを育てながら、どこへでも自由に行く好太郎の代わりに節子は地道に家のなかの静物などをモチーフに、絵を描き続けていく。ふと、好太郎が亡くなった年に果たして節子はなにを描いていたのだろうと探したが、その展示室にちょうどそれにあたる作品は見つけられなかった。

節子の絵は、華やかに展開した好太郎の作品とは対照的に、じっくりと自らの内面を見つめるかのような寡黙な作品が多いと感じた。幼子を抱えて生活を送りながらも、節子は毎年のように公募で入選を果たすが、外で光を浴びる好太郎に対して少しずつ悲しみや怒りが広がっていく。
ある公募展で節子に賞を与えようという話が持ち上がった。そのとき好太郎は「女房には必要ない」とつっぱねて辞退してしまう。それを、
「なぜそんなことを言ったのか。私は賞をもらいたかった」
と節子は怒った。

天才の夫をもち、生活を支えながらも、節子は自分の絵を決して卑下してはいなかった。


別れの日。逆転する物語

ふたつめの展示室へ移動した。

この部屋では、まさに好太郎の画業のクライマックスともいえる「貝殻」シリーズの絵が並ぶ。シュルレアリスムのようだが、それまでの、人柄をあまり感じさせなかった荒々しい画風と違って、このシリーズでは好太郎の人としての優しさや明るさが、画面に映し出されているよう。ひらひらと舞う蝶がいい。

好太郎の絶筆は、節子の顔を描いたデッサンだった。

臨終の部屋に残されたこの絵を、節子は晩年まで手放すことなく自邸に飾ったという。そのような美しいエピソードとともに好太郎最期の1枚を長く堪能していた私は、しかし、その隣に掲げられていた節子の言葉を読んで世界が逆転する思いを味わった。


“三岸死亡の電報が名古屋からきたとき、助かった、と思った。これで自殺しなくてすむと。―”


最愛の夫を亡くし、しばらくは絵を描くこともままならなかったのではという私の浅はかな想像は見事に覆された。その正直な心の動きに、好太郎との10年がいかに節子を苦しめたかが分かる。夢物語や女に明け暮れた夫。「貝殻旅行」の帰路で別れたのち、名古屋で用事があると告げたのは他の女と会うためだと、節子は直感で気づいていた。

「これでやっと生きていける。絵が描ける」と、心の中で叫んだという節子。

好太郎の眠る部屋へと駆けつけた節子は、その場で涙ながらに夫の死に顔をスケッチした。


俺が死んだら絶対、恋をしろ。

私には、節子の心がわかるようで、わからない。

「結局、一緒に画家が二人は暮らせない」と節子自身もその難しさを語っていたそうだが、私の場合はこれまで同業の、絵を描く人やものをつくる人を好きになったことが1度もない。彼らは私にとって「尊敬する人」か「同じ志をもった仲間」か、「ライバル」でしかない。意識してそうしているわけではないが、間違って好きになってしまった時に相手の才能や仕事に苦しまずにはいられないだろうという、無意識の防衛本能が働いているのかもしれない。

好太郎の死後、節子は年下のある洋画家と恋仲になり、一時は「別居結婚」という進歩的な行動にも出て世間を驚かせるが、その関係はやがて数年で終わりを迎える。その翌年、節子は自身と好太郎の念願だったフランスへ初めて渡った。

自分の制作に邁進しながら節子は亡き夫の再評価にも奔走し、好太郎の故郷に「北海道立三岸好太郎美術館」の開館を実現させる。それを見届けた節子はふたたび渡仏。以降84歳までの20年間をヨーロッパで過ごし、風景画家として確固たる地位を築いた。

生前の好太郎が口癖のように言ったという「俺が死んだらお前は絶対、恋をしろ」。これは言葉通りの意味だけでなく、「俺が死んでも絵を描き続けろ」という意味だったのではないか。

絵を描くために必要だと好太郎が信じ、節子を苦しめてまでもやめなかったいくつもの恋。しかし、節子の生き方を辿り終えて美術館を出た私は、こう思った。

「女は恋などしなくても絵が描ける」。



生家跡地に「一宮市三岸節子記念美術館」が開館し、そこに飾るための大きな桜の絵を描いた翌年、節子は享年94歳で旅立つ。奇しくもその日は、亡き夫、好太郎の誕生日と同じ4月18日だった。



(文中の情報やふたりの言葉は、本展の図録・キャプションを一部引用、参考にさせていただきました。)

『貝殻旅行―三岸好太郎・節子展―』
2022年2月19日~4月10日まで
一宮市三岸節子記念美術館





今週もお読みいただきありがとうございました。すごく、すごくいい展示でした。絵についての感想はぜひ実物を見てそれぞれに感じていただきたいので、今回は好太郎と節子のエピソードを中心にお伝えしました。

まったくの余談ですが、大満足して美術館を出ていくとき、そばにある読書コーナーに東村アキコさんの『かくかくしかじか』があるー。と目を奪われていると、なんとその隣に私の『ミュージアムの女』単行本が並んでいるではありませんか!!
くるりと振り返り、受付の係の方にご挨拶と御礼の気持ちをお伝えして帰りました。

◆次回予告◆
『接客業のまみこ』⑬⑭

それではまた、次の月曜に。


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絵/宇佐江みつこ



(今回はおやつ画ではなく、節子が生涯をかけて描いた「花」にちなんだ絵を。。)







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