ピースサイン〜Elysiumの娘たちが青春を唄う ウイバナ考
あくまでドシロウトの個人的感想です。
ピースサイン
この曲が初披露されたのが一昨年、2023年の11月というから早いものです。今更、感が拭えないところですが、やはり整理しておかなくてはいけないことだと遅筆にむち打つ次第です。
メンバーさんたちにはよく言っていることですが、この曲を最初に聴いたとき、
ウイバナの第9だ
迷わずそう思いました。今でもそうです。
第9、というのはベートーヴェンの交響曲第9番。年越し前に日本各地で演奏される合唱付きのあの曲です。
「劇的で壮大」
ということには同意してくださる方も多いと思います。クラシック音楽にはかなわないとしても、ポピュラー音楽ではとても構成が豪華絢爛。第9の第1楽章、生命誕生前の静かなストリングスの掛け合いのように、ピースサインはピアノ伴奏とサキマルさんのソロではじまる。この仕掛け自体は珍しくはありません。Ringも無伴奏のソロではじまるし、曲想はかなり違いますが初花もギターピッッキングのみ、リズムセクションなしのソロではじまります。ただ、Ringも初花もそのフレーズがサビに使われますが、なんと贅沢なことに、この冒頭フレーズはここだけ、使い切りです。
第9がティンパニーで静寂を破るように、ピースサインではスネアが入り後ろから迫るように徐々に盛り上げ、メンバー全員で歌唱、このときのフレーズがCメロ(注1)でまた使われます。本編(?)への加速がラスサビへの加速の布石になっているのです。
この最初の導入を締めくくるように、ピタリと伴奏が消え、まるで深緑の椿の葉から水滴が落ちるような静寂の中でサキマルさんが声を絞り出します。
そこからなじみのバンドサウンドが軽快にはじまります。Bメロがない構成、スリリングでスピード感あふれる展開です。サビも合わせて第9でいうなら第4楽章のはじめ、オーケストラが「ミミファソソファミレドドレレミーレレー」の主題を発露するところでしょうか。
劇的な2サビが終わったところでドラムマーチングの間奏、得意の曲中MCが入ります。第9でバリトンからはじまる独唱がはじまり、一度興奮をおさめて再び主題の確かさを確かめるように4声の独唱の掛け合いが合唱まで昇華される過程、そこにはじめに唄われたCメロが重なります。このときのサキマル節のエモさがすごい。最後にユニゾンで「嗚呼」と最高潮に。
ここから不意を突かれました。
ラスサビ、サキマルさんがソロを唄うとは!完全に油断していました。
サビはユニゾンが多いのですが、ウイバナ曲はその中でも数フレーズソロパートがあります。初花もとても構成の凝っている曲です。静かなパートをサキマルさんが聴かせにいっている分、1サビはシグマさん、2サビは全部ユニゾンとなっており、最後もサビフレーズでサキマルさんですが、3サビというよりは最初に対応させたエピローグ的な存在です。
ピースサインはバリバリの3サビ。1サビ:シグマさん、2サビ:ユラァさんときて、ここで真打ち登場とは!Re:Re:resistance以上の疾走感、にCメロでのせたエモさがサキマル節の揺らぎとともに震える。
そしてコーダ(Coda)、会場全体で「Peace sign」を唄い上げる。蛇足ながらこのときのギターがBrian Mayに聞こえるのは気のせいでしょうか?最高潮の上に最高潮を重ねる…もはやこれ以上はない!ウイバナ曲の第9としか言いようがありません。
この曲のように盛り上がって終わりたいところですが、そんなに文章の構成はうまくできません。言い足りないことをつらつらと。
不意を突かれた、というと、今では”ウイバナでピース”というこのテーマ。印象に残っているところで行くと「どうせ生きていくんだけどさ」というようなそのときどきのテーマのシリーズをウイバナさんは掲げていますが、今回の「ピース」は「青春」というテーマの部分集合ではありますが、主催ライブのテーマよりはずっと包括的。はじめは一昨年のエイプリルフール発表の「エントロピース」;熱力学でおなじみのエントロピー(もはや変換候補はエントロピースのほうが上になっている💦)とピースの合成語をジョークにしてはとてもキュートな楽曲。その言葉遊びだろう…と思っていましたが、それから新たなシンボルマークとなり、この「ピースサイン」という曲まで盛り上げる、重大なキーワードに成長させようとしていたとは、全く予想できませんでした。この戦略には舌を巻きました。
ウイバナさんの曲は「青春」の時間についての歌詞が多い。今までは「10年」という単位が目立ったが、ピースサインでは「今」を連呼しています。
初っ端からかなり難解。針は時間。時間で得られる幸せ?幸せの住所?一丁目一番地だから一番最初の住所。時間の経過で得られる幸せの最初の部分、最低限の幸せを手に入れられるか?と、いうことだろうか?
Cメロにもなるこのフレーズ、単純に考えると、いままでもウイバナさんの歌にあるように、悔いなく青春の今を過ごし、振り返ったそのときも青春であるという二重性を述べているようでもあります。
ここでひっかかるのは「今」の連発。歌詞などで反復して強調することは珍しくありませんが、いくらなんでも繰り返しすぎ。となれば、修辞的に強調ではなく、なにかほかの意味を持たせているようにも思えますが、具体的には答がわかりません。
だけ平仮名なのに仕掛けがあるようですが、リアルな時間としての「いま」、メタの時間としての「今」くらいしかアイディアがわかず、難題です。
まったくもってどうでもいい個人的感想になりますが、時計(クロック)と住所(アドレス)というと、どうしてもコンピューターを連想してしまいます。この二つのtermが出てくるのは現代的な印象を受けます。
フリも囲み取材のようで興味深い部分ですが、ここでも成功者のスピーチで思い出すのはSteve JobsのStay hungry, stay foolish. です。IT系の想像をしてしまうのは私だけでしょうか。
サビにいきますと、
から、
と、最初の8小節の最後の歌詞に変化を与えている。time, place, 最後はperson。多くのpopsのラスサビが1サビのリピートであることが多いのですが、この辺の實川さんの作り込みは丁寧です。その後のブルースターの花束やサクラノオトも3サビ微妙に換えてあります。
ピースサインに戻りますが、
これは非常に興味深い三句です。「ハッピーエンド」と「バッドエンド」、「ネバーエンド」。
素直に考えれば2サビの「バッドエンド」は「踏み鳴らす」、踏み潰してこわしてしまおう、という解釈が自然かもしれません。2Aメロの
と対応するし、ぴったりきます。スネアのマーチングもこれを象徴しているのかもしれません。
しかし、私は敢えてそうは捉えません。背反する「ハッピーエンド」と「バッドエンド」の両義性をもってして「ネバーエンド」に昇華される、というように考えます。
「ネバーエンド」、”永遠”というものはどのように獲得されるのか?
社会学者の大澤真幸は主著の「世界史の哲学」の中で、古代史における最大の事件、「キリストの受難、復活」を「悲劇であるのと同時に喜劇でもある」とし、「神(の子)を処刑するという行為、それを超越する復活」という過程によりキリスト教は歴史における普遍性と永遠性を獲得できた、としています。
もう少しかみ砕いた例を挙げると、近内悠太の「世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学」でハリウッド映画の「ペイ・フォワード(Pay it forward)」がキリスト教の教義の再現であると解説しています。主人公の少年が、誰かの助けになることをし、その助けを受けた人はまた誰かを助ける、そのような行いを連鎖させるという社会運動を実践します。ところが、贈与の法則、give and takeが成立する関係はいいのですが、その法則を破る存在は社会の中で潜在的なストレスとなり、排除されます。最初のgiveをしてtakeをしなかった主人公の少年は本来ならばありがたがるべき対象ですが、逆に殺される—受難することになります。そしてこれが少年の名声を永遠に刻むことになる、この構造がまったくキリスト教ありかたそのものである、ということです。
「永遠」のありかたは必ずしも宗教に限りません。贈与の法則はかならずしもありませんが、ソクラテスの処刑もそのひとつだと言えます。彼の哲学が自身の処刑を受け入れるべきと結論づけられたのでそれに従い死を選ぶことで学問、彼の哲学は永遠となりました。(注2)
メンタリティーはかなり幼稚になりますが、年始に初詣に行った天満宮(天神様)。菅原道真の怨霊鎮魂のための神社の全国チェーンですが、「不遇の死を負わせた」という、個人を超えたの社会的負い目はかれの存在を神として1500年余り存在し続けさせています。
突然ですが、話を第9に戻すと
と、善悪両義とも救済しています。ただし救済されるのは、
人々から賞賛されるような理想を追求した人々が死を克服してむかう楽園、”エリジウム”の娘に呼ばれるにふさわしいひとだけなのです。
この魔法とはサキマルさんのおっしゃる”魔法”(前記事注1)を彷彿させます。
第9はエリジウムの娘が歓喜を唄い、ピースサインはウイバナの四人の”エリジウムの娘たち”が青春を壮大に唄い上げる、まさに”ウイバナの第9”と言えると思います。
まったく話を第9にずらして締めてしまうと”ウイバナ考”にはならなくなってしまうのですが、どうしても。
初めて第9を聴いたとき、私は「これはポップスだ」と思いました。
シラーの詩にベートーヴェンが書き足した声楽の冒頭、
と、第1楽章のような古典派の音楽を否定し、第4楽章で超越を成し遂げている。曲調からしてかなりポップスに近い。私は、ベートーヴェンはこの第9でポピュラー音楽を発明したと考えています。
アイドル業界の再興には"新しい音楽”が求められていると論じられて久しいところです。この提言や第9を意識したものではないと思いますが、ウイバナさんのこの後リリースされた、ブルースターの花束、サクラノオトなどはかなり今までと曲調が違っており、籠の鳥ではpoetry readingと新たな音楽的試みがなされています。
とはいえ、これらが第9のような到達点ではありませんし、従来のバンドサウンドを捨てる必要もないし、超えてもいないところです。
セイシュン、コウフク、ピースサイン
と、なんとなく語呂も似ている感じがするのは私だけでしょうか。
ウイバナに神々の閃光を
ウイバナから神々の閃光を
注1:Bメロがない場合、Cメロというかはあやしいところです。
注2:毒杯を飲まなくても彼の哲学は永遠だったかもしれない、という反証が欠けているところはご容赦ください。