米国特許制度の歴史
米国の特許法の歴史は、革新と発明の促進を目的として、国の成立初期から進化してきました。以下に、その主なポイントを時系列で紹介します。
制度としての始まり
そもそも制度として特許が生まれたのは、15世紀のヴェニスです。これは、技術的な革新と発明を奨励し、保護するための重要な歩みでした。この時代のヴェニスは商業と製造の中心地として栄えており、新しい技術や製品が経済発展に大きく貢献していました。そこでは新しく、精巧な機器の生産をする独占権を付与する現代特許制度の元祖が開始されました。
1474年:ヴェニス共和国は世界で最も古い特許法の一つを制定しました。この法律は、新しい機械や技術的な発明に対して、一定期間、発明者に排他的な製造および販売の権利を与えるものでした。発明が公共の利益に貢献するものであれば、10年間の独占権が発明者に与えられました。しかし、そのためには、発明を公開し、それが新しく、実用的であることを証明する必要がありました。
16世紀半ばの英国における特許制度
16世紀半ばの英国での特許制度は、ヴェニス共和国における特許法制定の約100年後に形成され始めました。この時期の英国では、技術的な発明や商業実践に関する独占権を王室特許(Royal Patents)として発行することで、個々の発明者や事業者を保護する制度が徐々に確立されていきました。しかし、これらの初期の特許は、現代の特許制度とは異なり、新技術特権というよりも、独占権の代わりに上納金による王室が利益を得る手段となっていた。
議会は不満を持ち、1623年専売条例によって排他特権を不法とし、新制度が開始しました。
1623年、これらの問題に対処するため、英国は「スタチュート・オブ・モノポリーズ(Statute of Monopolies)」を制定しました。この法律は、王室が特許を乱発することを制限し、新しい発明にのみ特許を付与することを定めました。
スタチュート・オブ・モノポリーズは、特許が真に新規で有用な発明に対してのみ付与されるべきであるという原則を確立しました。これにより、特許制度は王室の恩寵から、より客観的な基準に基づく制度へと移行し始めました。
この制度が米国の植民地に導入されたのが米国特許法の始まりであります。
17世紀における米国での特許制度
・1641年にマサチューセッツを皮切りに、当初13の植民地のほとんどで特許が付与されました。ただ、米国は、特許法について英国とは逆の視点を持っていた。当初、米国に上陸した人々の間では人手が足りず、それを補う良い技術を必要としており、技術促進を目的とする特許制度に好意的でしたが、州ごとの特許権の付与は、各州間でのコンフリクトを生みました。
・当時蒸気船の特許が、2人の異なる発明者に与えられたため、真の発明者をめぐって、重大な混乱が生じ、州間の蒸気配管の良好な運用に支障が生じました。このような問題を解決するため、国の特許システムが構築されることとなりました。
1787年に採択されたアメリカ合衆国憲法は、連邦政府に「作者と発明者に、それぞれの著作物と発明に対して、限定された期間、独占的な権利を保障する」権限を与えました(憲法第一条第8節)。この条項は、知的財産権の保護を通じて、創造性と革新を奨励することを目的としていました。
独立戦争後のアメリカ合衆国は、産業の発展と経済の成長を促進する必要がありました。特許法は、発明家がその発明を公開するインセンティブを提供することで、技術革新を促進し、国家の産業基盤を強化することを目指していました。そして、1790年5月、最初の議会において、最初の米国特許法が成立しました。
ポイント
・1623年の英国における専売条約で特許法と競争法のコンフリクトの問題が認知
・特許制度に好意的なプロ・パテントの立場と逆のアンチ・パテントの立場が相克した。
1790年特許法
特許の審査:この法律により、発明に対する特許を取得するための正式なプロセスが確立されました。発明が新規で有用であると認められると、発明者には特許が与えられました。
特許期間:当初、特許の有効期間は最長14年と定められていました。
審査プロセス :特許の申請は、当時の国務長官、戦争長官、および司法長官からなる委員会によって審査されました。この審査プロセスは、発明が特許の基準を満たしているかを確認するためのものでした。
・1793年改正: 特許申請プロセスが簡素化され、発明が新規であることのみが要求されるようになりました。これにより、特許の申請と取得がより容易になりました。
プロ・パテントとアンチ・パテント
*プロ・パテントの立場
合衆国憲法の起草者であるアレキサンダー・ハミルトンにちなんで、ハミルトニアン。
アンチ・パテントの立場
米国特許法制定にかかわり、ネガティブ意見を持つトマス・ジェファソンにちなんで、
ジェファソニアン。
・米国特許法1836年改正 (1836年法)後、特許権の付与件数は増大。
・その後、実態を備える技術のみ特許を付与するという、現在の非自明性要件の起源の考え方が発生。
・1836年改正: 特許制度に重要な変更をもたらしました。特許申請の審査プロセスを導入し、米国特許庁(現在の米国特許商標庁、USPTO)の前身を設立しました。また、特許モデルの提出が求められるようになりました。
・1870年改正: この法律は、特許法を一新し、特許申請者がその発明の完全な説明を提供することを要求しました。また、特許の不正使用に対する罰則を導入しました。
・1920~30年代の反トラスト運動のもと、大企業批判と特許制度批判が強まる。
・しかし、アンチ・パテントの立場は第二次世界大戦により影をひそめる。武器開発のために技術者による新たな発明が求められたからである。
・そこで1952年法改正では、従来特許法の基本原則の多くが維持
・しかし、1952年法成立後も、裁判所や学説は、アンチ・パテントを依然として引き継ぐ結果となりました。
・連邦裁判所で特許権の維持が難しく、巡回裁判所ごとに、特許法の考え方に衝突が生じました。
・特許にかかる控訴事件を一括して取り扱う連邦巡回区控訴裁判所(CAFC)の構想が浮上します。
・議論の末、1982年にCAFCが設立
・設立後はより多くの特許が有効と判断され、差止めが得られやすくなり、かつ、損害額も上昇
・ところが、プロ・パテントの動きの中で、濫用的な特許訴訟によって利益を得る「パテント・トロール」と呼ばれる動きが生じた。
・米国の産業界において問題視され、特許法の改正の機運が高まった。