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立場

台風にミルクを飲ませながら報道を見ていた。

職場におけるパワーハラスメントの報告と処罰と更生のドキュメンタリーがやっていた。加害者側のドキュメンタリーが報じられていた。大変胸の痛くなる話だった。加害者、被害者、どちらの立場にも、何重にもなって積みあがるそこまでのやり取りがあることが良くうかがえたからである。

それぞれが抱えている責任、それぞれの持っている倫理観や優先順位、異なる能力や立場や価値観、年齢や経験。必死な現場では、その違いが大きなストレスとなるのが良くわかる。

ハラスメントの録音が流されていた。「バカか」とか「アホか」とか、「お前はもういいから連絡だけしておけばいい」とか、これは言われたらきついという言葉が流れてきた。これが日常的に言われれば、心が持たないだろうと思われた。それは当然、問題として取り上げられてしかるべきである。

しかし、自分でも意外だったのだが、ハラスメントをした側の気持ちも、正直なところ分からないでもないと感じてしまった。つまり、言動としては不適切という他ないのだけれども、その能力があり、その立場と責任を抱えていて、その上でチームメンバーとの間に様々な差異があったことに、相当の疲れと苛立ちと怒りを日常的にため込んでいたのだろうというのが容易に伝わってきたのだ。もちろんそこには慢心とか、感謝の心の不足とかを指摘しようと思えばできるだろうけれど。

加害者は大々的にそのパワハラが報じられ、処罰として降格が命じられ、より下の立場でチームの一員として働くことを学ぶようにと任じられていた。謹慎期間、周囲の人々から白い目で見られ、「町の恥だ」などといわれる声も聞こえていた。
その処遇は、その組織の中ではそうなるのが妥当だろうなぁと思われるものなのだけれど、もやもやとする点がいくつかあった。

その方の働きは専門的な職務なのに、その重要な人事決定を下した上部組織は、専門外の人々であった。
ハラスメントの問題はあったが、その方には非常に大きな功績もあった。
良い時は利用するだけ利用して、問題が発覚するとさーっと敵になるという手のひら返し。
…とはいえ、パワーハラスメントは問題なのだが。


なんとなく、スティーブ・ジョブズとかイーロン・マスクとかホリエモンとか、そんな人々が思い起こされた。いや、彼らほど破天荒ではない。
むしろ、その方は異端児というより革命児という感じだった。能力があり、ビジョンがあり、野心があったんだと思う。その働きは大いに成功して、大変な苦労を重ねながら、これから成果がどんどん見えてくるというところだったのだろう。その方を慕う人々も多くいたようだ。
しかし、身近なチームの中でのひずみがもはや小さなもめ事程度ではすまなくなっていた。

いじめとかハラスメントとかの報道を見ると、いつも被害者がどのように身を守ったらいいだろうか、闘ったらいいだろうかという方に気持ちが向かうのが私の常だったので、加害者側の苦悩を考えたのは自分でも意外な気持ちだった。そういう気持ちにさせられるドキュメントだったのだろう。
彼が私利私欲のためにハラスメントを犯したのではなく、むしろ職務や社会の福祉のために大望を抱いていた一方でのハラスメントだったということもある。

おかしな発想だけれど、「私たち、入れ替わってる!?」というあれが、当事者の二人で一か月くらい起きたら、どうなったのだろうと思った。それぞれの置かれている立場を、文字通り入れ替わって体験したら、それぞれに対する思いは変わっただろうか。

分かりあうというのは大変難しいことだ。謙遜も行き過ぎると攻撃の的になるし、強気も行き過ぎるとハラスメントになる。プロジェクトを前に進めるためにはどこかで誰かがしわ寄せを食うものではあるし、全員が定時で帰りますでは仕事が回らないのが現実だ。小さな不満も積み重なると大きな溝になる。

いろんな立場があって、「お互いのことを思いやろう」とはよく言われるのだが、その何と困難なことか。
異なる文化と人種の混じるアメリカでは、やはり自分の権利は主張して戦って勝ち取らねばならないものになるのだろう。日本では、謙遜の美徳と権利の主張のバランスが大変難しい。上手な争い方というのを学べないでいる。

一見いじめられている側が絶妙なやり口によっていじめる側にもなることがある。少数意見を重く取り上げることで多数意見が無視されることもある。

加害者をやり玉に挙げることで、本当に問題は解決され、全体としての利益につながっていったのだろうか。

わからないのだけれど。

もやもやした。世界はもやもやだ。

「出る杭は打たれる」というのでは、なんともやるせない。

もちろん人格否定の言葉が許される余地はない。
だけれども、被害者の生活を全部開いてみたら加害者を責められるほどの潔白な生涯なのだろうか。被害者が、加害者と同じ能力と立場と責任とを背負ったら、果たして自分自身のやり方がどんなふうに見えるのだろうか。

逆に、加害者も、被害者と同じ能力と立場と責任とを背負ったら、自分のやり方はどんなふうに見えただろうか。自分のやり方の行き過ぎを恥じることが出来ただろうか。

わからないのだ。こんなことを書いてみたけど、自分もどちらの立場にもなりうるのだ。加害者にも被害者にもなりたくないが。

その場面になった時、両方の置かれている立場に対して、理解の橋をかけてあげられる人がいたら、いいのだが。
あるいは、そういう役割を果たせる人になれたらいいのだが。


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