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好きなもので自由になるか不自由になるか

好きなものが、あなたにはあるだろうか?

勉強でも娯楽でも恋愛でも家族でも、自分の心が動いて、人生の喜びを感じさせてくれるもの。普通は好きなものがあるというのは良いことだと思う。

ただ、僕の中には二つの方向性があって、そのせいで、好きなものがあって良かったのか良くなかったのか分からなくなることがある。

二つの方向性とは…

(1)好きなものをとことん好きになって知識でも道具でも書籍でもなんでも所有したくなるこだわり

(2)なんとなく好きなものではなく本当に好きなものを保持するために、中途半端なものは手放したいという身軽さへのこだわり

好きだからどんどん集めるということをやっていると、集めている時は楽しいのだが、好きの気持ちが変化した時に大変である。好きという気持ちは永遠ではない。コツコツ集めたものに丸ごと興味が薄れていき、ある時ごっそりと手放すということもある。楽しい時間を過ごさせてくれたのだから「ありがとう」という気持ちで手放せばいいんだというけれど、そう簡単にも納得できない。

そもそもなぜ好きになったのだろう。本当には好きではなかったのだろうか。周りの声に乗せられただけだったのか。人に見栄を張りたくて持っていただけではなかったか。本当の本当にそれが好きで、大切で、必要なものだったのか。

集めたものを手放すたびに、自分の感覚や価値観の特性を見つめることになる。

好きなものだったから所有して楽しかったのだ、と思い込みたいのだけれども、「好きなものを所有すると楽しいよ」という考え方に弄ばれていたのではないかという気がしなくもない。

多分、僕はあまり所有したくないのだと思う。所有すると縛られるから。それよりも、自分自身の中にある世界が豊かになったり、世界を見る目が養われたり、人や物事を深く理解できたりすることに喜びを感じるタイプなのだ。まだ活用できていないものを見るたびに、「活用できないのに僕が所有しちゃっててごめんな…」とちょっと申し訳ない気持ちになる。



この夏、いろいろなもののスリム化を図っていた。
家の中にある物たちのスリム化。食事のスリム化。肉体のスリム化。そして家計のスリム化。

この過程でいろんなことを感じたのだ。
僕は食べることがもともと好きな方なのだけれど、30を超えてからやはり体型と体重と健康を意識しなくてはならないと感じた。それで、本当にこれを食べたいのか?食べたあと自分は幸せになったか?食べないよりも幸せだったか?食べる前と食べている最中と食べた後で、本当にどう感じているか。自分を無意識にごまかしたり騙したりしていないか。みたいなことを意識してみた。(面倒なやつだ。はい。自覚はしている。いいのだ。自分で自分を研究するのが好きなのだから。)

そしたらね、とてもシンプルなご飯の方が心も体も喜ぶことに気が付いた。ご飯100gと野菜たっぷりの豚汁。あと納豆かキムチ。これを、少しずつアレンジして食べていく。それくらいで体も頭も十分動く。むしろその方がスムーズに動く。
アレンジは大事で、豚汁は蒟蒻とか牛蒡とか大根とか、味噌を変えたりするのは楽しい。たまに生野菜のサラダを加えるのもいい。
和食は素晴らしい。同じでも飽きない。

僕を突き動かしていたのは「ストレス発散でこれが食べたい」とか「頑張って働いたのだから、美味しいものを食べて楽しまなくちゃ」といった、自分の声と思い込んでいた誰かの声に弄ばれていたからなのでは…と思ったのだ。

それ本当に自分で思ってるか?誰かの受け売りじゃない?コマーシャルに乗せられてない?と疑ってみるのは良いことだと思う。

ということで

僕は好きなことをして、好きなものを持って、なおかつ自由で身軽でいたい。
欲張りで我儘なのだ。

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