十一月二十三日
十一月二十三日午後二時に国電神田駅北改札口を出た所で待っています。
この間、久々に車谷長吉さんの小説『児玉まで』を読んで、びっくりしてしまった。
初めてこの小説を読んだのは二十年くらい前だし、それからも何度か読んだのだろうけれども、おそらくあまり落ち着きのない生き方をしていたので、目には入っていたものの、日付までじっくり認識していなかったのだと思う。
十一月二十三日というのは、私が初めて車谷さんの小説を読んだ日だった。
なぜ覚えているかというと、大学入試の模試を受けていて、勤労感謝の日だったということが印象に残っているからだ。
その日の模試では、現代文の、小説の課題として、車谷さんの『鹽壺の匙』が使われていた。文章の感じからして、若手の作家とは考えにくかったが、当時、国語の時間によく便覧を眺めていたので、その当時ある程度名が知れていた作家さんだったらなんとなく名前を知っていたのだが、知らない名前だった。
インターネットを気軽に使っていた時代ではなかったので、親に聞いてみたが親も知らず、本屋を探し回って、ようやく一冊文庫本が見つかったくらいだった。当時高校生だった私には、最後まで読み通すだけでやっと、という面もあったにしても、ところどころで心に残る描写が多く、車谷さんを通して、日本の小説に改めて興味を持ったのだった。
そしてなんと、当時両親が購読していた新聞では、奥様の、高橋順子さんがエッセイを掲載されていた。はじめはそんなことなどつゆ知らず、高橋さんの顔写真があまりに美しく、こんなにきれいな方が詩人をされているだなんて、なんだかすごいなと思っていたら、ある日、「夫、車谷長吉が」と書かれていたので、仰天してしまった。小説ではいかにも世捨て人っぽいことを書かれているのに、こんなに美人な奥さんがいるなんて……!? どういうこと……!? 本のあとがきに「凡て生前の遺稿として書いた」とあったので、書かれた後に他界されてしまったとか、ご病気でもはや書けなくなっているとか、そんなことを勝手に想像していたのに、普通に人間らしい(などと言ったらさすがに失礼だろうか)生活をしているらしい……、この人はいったいどういう人なんだ……!? と謎は深まった。
『児玉まで』はとても好きな小説なので、この小説について思ったことをつらつらと書いてみたいと思っていたのだが、なかなかまとまりそうにないので、またの機会にじっくり書いてみたい。
改めて読むと、詩というものに興味がありつつ、どう鑑賞したらいいかわからない私にも、「なんて詩的な表現なんだ!」と感心してしまうところがあったり、私がときどきぴんときてしまう「果たされなかった約束」というキーワードが感じらたり、また今更ながら、誤植? と思われる個所を発見してしまったりなど、精読するのもなかなか楽しかった。
車谷さんの作品では、『赤目四十八瀧心中未遂』が有名であるが、あとがきにもあるように、『児玉まで』は、『赤目四十八瀧心中未遂』の元となっている作品だと思われるし、車谷さんの作品を多く読んでいくと、派手さはないものの、こちらのほうが興味深いと思われる点も多く出てくると思う。
ということで、今年中くらいにはなんとかなるといいのですが……。