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#90 青森市内の中世城館(下)
後潟・内真部地区の城館跡には、尻八館跡(伝尻八館・後潟城)、内真部館遺跡(および西方の山城遺構)、前田蝦夷館遺跡(および南方の山城遺構)、湯ノ沢館遺跡、飛鳥山館遺跡がある。発掘調査が実施されたのは、尻八館跡のみであるが、すべて急峻な崖面に守られた山城である。安藤氏系の城館遺跡に特徴的なのが、標高の低い山頂部に空堀を一周廻らすという単純な構造である。これは実際には空堀というよりも腰曲輪、帯曲輪に近いものであり、山腹を削って切岸を構築し、その廃土を使って切岸の下に作った平場縁辺に土塁を盛るという手法をとっている。かかる形態は北奥古代の防御性集落(10~12世紀)と類似しており、安藤氏がその構築方法を継承した可能性が指摘されている。安藤氏系の城館遺跡の多くが「○○蝦夷館」と呼ばれるのも同様であろうが、戦国時代にはすでに忘れ去られた城館であったことによるのだろう。中世後半の城館はほとんどが平山城、平城の形態をとり、本格的な山城は安藤氏系の城館に限定されるのである。また、これら城館群は尾根伝いに連絡できる地勢にあり、各々の城館が独立していながら、容易に連係もとれる配置が窺える。
戸崎・宮田地区の城館群にも同様の傾向があり、中世後半の城館遺跡と推定される築木館遺跡を除けば、戸崎館遺跡、後萢蝦夷館跡(未登録遺跡)、宮田館遺跡がこれに相当する。
横内・高田地区には、横内城跡、野尻館遺跡、駒込館遺跡、高田城跡、高田蝦夷館遺跡、細越館遺跡、小館遺跡がある。古図に描かれる堤浦古館は、荒川と駒込川合流地点にあったことが分かっているが、遺構未確認のため未登録遺跡となっている。駒込館遺跡として登録されている一帯でも遺構は未確認であるが、ここには中世後半の城館があったと推定される。また、高田蝦夷館遺跡は、安藤氏系の山城と思われ、地元民に伝承される赤平城跡(葛野(1)遺跡隣接地、未登録遺跡)も同様であろう。これら以外の城館遺跡は、ほとんどが明らかに戦国時代の城館遺構を残しており、南部氏系の城館とされている。特に、横内城跡は確かな史料に城主が記された数少ない城館であり、堤弾正四代の居城として南部氏による濱口ルート確保の拠点となった。高田城跡も土岐大和助の居城として知られる。
油川・新城地区には、油川城跡、新城跡、野木和(11)遺跡、三内遺跡、戸門館遺跡があり、他にも天狗館跡(未登録遺跡)などがある。油川城跡は横内城跡同様、城主奥瀬善九郎の名がはっきりしており、天正13年(1585)、大浦(津軽)為信の攻撃により落城したことが分かっている。奥瀬氏は南部氏家臣とも言われるが、荒川以西の地は浪岡北畠氏の影響力の強い地域と考えられており、新城跡・戸門館遺跡なども南部氏および浪岡北畠氏の被官が城主だったものと思われる。油川落城後、奥瀬氏所領のうち新城・沖館は天正13年(1585)から慶長元年(1596)まで津軽氏に協力した浅瀬石城主千徳氏の支配下に入ったという。青森平野から浪岡へ抜ける鶴ヶ坂口の要衝に位置する新城跡が、重要な政治的意義を持っていたことが窺える。慶長2年(1597)、千徳氏は津軽氏によって滅ぼされる。
なお、津軽氏側の史料には、横内落城が油川城(奥瀬氏)攻略と同年の天正13年(1585)の出来事として記されるが、現在では南部氏側の史料にある通り、天正18年(1590)のことであったとする見解が主流を占めつつある。横内城(堤弾正)攻略と同時に、その東方に位置する糠部郡平内郷(七戸隼人)をも併呑しているが、津軽氏側の作為には、天正14年(1586)の豊臣秀吉による関東惣無事令、翌天正15年(1587)の関東奥両国惣無事令という合戦禁止令以前に津軽統一を終わらせていたことを強調する目的が窺える。