#48 史記と四季

 昨夜のNHK大河ドラマ「光る君へ」は、何と言っても『枕草子』のエピソードが秀逸であった。まさか『枕草子』で泣かせてくれるドラマがあろうとは。傷心の中宮定子は、傷心たる理由がある。天皇の外戚となることが栄達の根幹にあった時代に、父藤原道隆の期待を一身に背負って入内し、中宮となったものの、御子を授からぬ間に道隆が病没、伊周も隆家も罪を得て配流となり、力のある公卿の後ろ盾無き后の子供は立太子できる保証のない状態に絶望してもおかしくはない。ドラマの中ではわずかに触れられただけであるが、道隆存命中は、一条天皇には定子以外入内できなかったが、道隆亡き後は、まず内大臣藤原公季(右大臣藤原師輔の十一男、伊尹・兼通・兼家・為光の弟)の娘、義子が女御となり、さらに右大臣藤原顕光(関白藤原兼通の長男)の娘、元子が女御となっている。たしかに元子の母は盛子内親王であるため、村上天皇の孫にあたる。ちなみに数年後、一条天皇乳母であった藤原繁子の娘、尊子(関白藤原道兼の娘)も入内している。
 藤原道長といえば、娘である彰子を強引に入内させたかのようなイメージを持たれることもあるが、今後の道長政権を長く支えることになる年長の公季や顕光、すでに死んでいる道兼の顔を立てつつ、慎重に事を運んでいるのである。太政官の一上とはいえ、まだまだ若い道長政権は盤石ではない。
 ところで、『枕草子』の書名由来には諸説あるのだが、今回は近年の歴史学者五味文彦博士の説を採って、唐様・漢文の史記(しき)にかけて、四季(しき)を枕にした和様・かな文の作品との見解が示された。当時、平安時代中期は国風文化の盛んな時代であり、しかも女性文学としてのかな文学が勃興している時代背景があった。端緒は内大臣藤原伊周から一条天皇と中宮定子に高級料紙(和紙)が贈られたことにあり、一条天皇は『史記』を書写したが、定子は「何を書くべきか」と清少納言に問うたのである。そこで、史記に掛けて四季を枕にした作品がよいと答えたのであった。『枕草子』が「春はあけぼの」に始まり、四季の話を冒頭に配置するのはそのためであるとする。それにしても、春は曙、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて(早朝)を背景に、ほぼ台詞もなくあのような美しいシーンを表現できるとは、脚本家・演出家、制作陣の充実ぶりが窺えるし、何より役者冥利に尽きるというものであろう。

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