#82 最初の経塚
前回のNHK大河ドラマ「光る君へ」で、藤原道長は「御嶽詣」こと金峯山詣に出かけ、険しい山道を登り切り、無事、金峯山(大峰山)山頂付近の山上蔵王堂近くに自ら書写した経典類を埋納した。いわゆる金峯山経塚の一つであり、考古学的に確認できる最古の経塚としても知られている。道長の日記である『御堂関白記』によると、寛弘4年(1007)8月2日に長男頼通や源俊賢らとともに都を発ち、8月11日に金峯山山頂に埋経、帰路は舟や馬も使い、8月14日には帰京している。すなわち、行きは徒歩だったということである。ドラマでは経典を納めた経筒や経塚の造営、埋納に際して仏僧たちが読経を唱える儀式の様子まで描かれ、これも考古学ファンにはたまらない場面となった。なお、経筒には寛弘4年8月11日という記年銘があり、どうしても8月11日に埋納する必要があったのである。道中雨天が多く、難渋したことも書かれており、その場面も再現されていた。
埋経の様子については、金銅の宝燈を立て、その下に埋納したとしか書かれていないため、石を積んで石室状の空間を造り、そこに経筒を納め、さらに上に大甕を逆位に被せて石で覆うという古代末期~中世初期の経塚らしい造営シーンは画期的な描写である。歴史考証の方は考古学にも造詣深いことを示したわけであるが、道長が埋経した金峯山経塚の経筒は、元禄4年(1691)に掘り起こされたものであり、その実態は記録されていないため、大甕の部分は少しやりすぎの感がある。ただし、道長の経筒は1000年以上経っているにも関わらず、中身の経典含めて保存状態が極めて良いため、剥き出しの石室ではなく雨水対策をとっていたに違いないという考えが反映されたものであろうか。
道長の経筒は現在、京都国立博物館に寄託されており、たまに展示されることもあるという(国宝・金峯神社所蔵)。金銅製の経筒表面には、弥勒菩薩に対する願文や記年銘などが刻まれている。金峯山はこの当時、未来仏である弥勒菩薩の霊場となっており、来世での往生を願う人々の篤い信仰を集めた。道長は浄土教に傾倒していたため、ドラマで描いたように中宮彰子の懐妊祈願だけを強調するのは少し違和感がある。金峯山詣の1年後、彰子が懐妊したため御嶽詣のご利益が強調されたに過ぎない。たしかに金峯山の中腹にある吉野水分(よしのみくまり)神社は子授けの神様でもあるため、彰子の懐妊祈願も目的の一つではあろうが、大きな目的はやはり浄土信仰に基づく極楽往生に他ならない。平安中期~中世前期は浄土教全盛期であったことをあらためて思い起こす必要があろう。
そもそも経塚とは、かかる道長の埋経を嚆矢とする仏教遺跡、遺構であり、近世の経塚まで含めると全国で数万基以上造営されている。元々は末法思想に基づき、釈迦入滅から56億7000万年後に地上に顕れる弥勒菩薩のために、経典を後世に伝えることを目的としている。実際、道長の経筒には「法華経」・「無量義経」・「阿弥陀経」・「弥勒経」が納められたが、経筒銘文には、「法華経は、釈迦の恩に報い弥勒にめぐりあい金峯山の蔵王権現に近づくため、阿弥陀経は、臨終の際に心身乱れず極楽往生するため、弥勒経は、長い間の重罪を消滅させ慈尊(弥勒)の出世に会うために埋経した。死後(未来)に弥勒が悟りを開いたとき、自らも金峯山に詣でて弥勒の法華会を聴聞し成仏の記(確約)を受けるとき、金峯山に埋めた経が湧き出して会衆を歓喜させるため」と記されており、弥勒のための経典保存だけでなく、自身の極楽往生や様々な現世利益も含まれている。