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#89 青森市内の中世城館(上)
現在の青森市一帯を含む陸奥湾沿岸部は、古代末~中世には外浜(外の浜・外ヶ浜)と呼ばれ、近世以降、海運など商業地として発展したという。しかし、近年は「寛永3年(1626)の青森開港以前は寂しい漁村であった」とする従来の通説は否定される傾向にあり、中世にはすでに油川(大浜)や堤浦(包宿)など湊町や宿場町が栄えていたと考えられている。
鎌倉時代の外浜は、執権北条氏の得宗領に組み込まれ、得宗被官となった津軽安藤氏が実質支配していたとされる。鎌倉末期における安藤氏の内訌を経て、南北朝時代および室町時代前半は、根城南部氏(南部師行)の動向や外浜安藤氏(後潟安藤氏)の存在が知られるが、室町時代後半は不明なままである。中世末期に近づくと蓬田城主蓬田越前、油川城主奥瀬善九郎、横内城主堤弾正、二本柳村館(遺構未確認)館主二本柳三郎左衛門、高田城主土岐大和守、新城城主新城源次郎、小館館主小館弥右衛門など中世城館の城主・館主が分かっている場合も僅かにあるが、不確かな史料が多い。
平成21年4月現在、青森市内(浪岡地区を除く)では22の城館遺跡が登録されており、遺跡台帳番号順に列挙すると三内遺跡、戸崎館遺跡、尻八館跡、油川城跡、築木館遺跡、駒込館遺跡、細越館遺跡、野木和(11)遺跡、前田蝦夷館遺跡、内真部館遺跡、新城跡、土筆山館遺跡、戸門館遺跡、高田城跡、高田蝦夷館遺跡、小館遺跡、野尻館遺跡、横内城跡、多宇末井館遺跡、宮田館遺跡、飛鳥山館跡、湯ノ沢館遺跡となる。他にも新城・浪館・沖館・古館・浜館・小館・牛館・築木館など城館の遺唱と思われる地名が多い。
青森市内の中世城館跡については、『新青森市史』(資料編2古代・中世)の「第Ⅳ部城館資料編」が集大成ともいえるまとまった記述をしているが、後萢蝦夷館(後萢遺跡隣接地)や堤浦古館など遺跡として登録されていないものも多く、明らかに遺跡と判断できる箇所については、早急に現地踏査のうえ遺跡登録を果たすべきであろう。前田蝦夷館南方の山城遺構や内真部山城跡については、遺跡範囲の拡張等で調整できるものと思われる。
青森市内の中世城館は、その分布によって大きく①後潟・内真部地区、②戸崎・宮田地区、③横内・高田地区、④油川・新城地区に分けることができるが、これに漏れる浅虫地区の多宇末井館遺跡は、構造的には中世城館でありながら、古代末期の大河兼任の乱に関連する「(有)多宇末井之梯」に比定される可能性もある。これら四つの地区は、城館群とでも言うべき共通した特徴を持っており、後潟・内真部地区および戸崎・宮田地区は鎌倉~南北朝時代の津軽安藤氏に関わると思われる城館遺跡が多く、横内・高田地区は室町~戦国時代の南部氏、油川・新城地区には浪岡北畠氏関連の城館遺跡が多いとされる。それぞれ安藤氏系、南部氏系、浪岡(北畠氏)系とも言い得るであろう。