#76 常光寺掃苔録
今夏も実家、青森へ帰省し、菩提寺である上北郡野辺地町の日照山常光寺(曹洞宗)で墓参を果たすことができた。常光寺は寺町に所在するが、一帯は野辺地町の中心部にあたり、野辺地町役場やかつて行在所であった野村治三郎邸も隣接している。
常光寺は寛永9年(1632)、野辺地城代であった日戸(ひのと)内膳行秀が同じく城代であった父の菩提を弔うために開基となり建立したと伝えられている。野辺地城は戦国時代まで北郡に勢力を誇った七戸氏(南部支族)の庶流、野辺地氏の居城であったが、戦国末期の九戸の乱で七戸氏や一族の横浜氏、野辺地氏は没落し、三戸南部氏(後の盛岡藩南部氏)により接収された。南部氏は交通の要衝である野辺地城を重視し、代々重臣を城代としているが、もともと日戸氏は、現在の岩手県盛岡市玉山区日戸字古屋敷にあった日戸館を居城とする小領主の家柄であった。野辺地の常光寺は盛岡五山の一つ報恩寺(瑞鳩峰山報恩禅寺)の末寺であるが、日戸館の跡地にあたる日戸字古屋敷に同じ山号寺号の日照山常光寺があり、やはり報恩寺の末寺となっている。寺伝によれば、日戸の常光寺は寛永年間の創建というから、野辺地常光寺とほぼ同じ時期である。日戸氏の出自を考えれば、日戸にあった常光寺に倣って野辺地にも常光寺を建立したと考えるのが自然であるが、どうであろうか。
日戸と野辺地の常光寺にはさらなる繋がりがある。石川啄木は明治19年(1886)、日戸の常光寺で生まれ、境内には金田一京助謹書の「石川啄木生誕の地」の碑が建てられているが、父石川一禎は日戸常光寺の住職であった。母カツは一禎の師僧である葛原対月の妹であり、かかる葛原対月こそ野辺地常光寺の住職だったのである。石川一禎夫妻は野辺地常光寺に身を寄せていたこともあり、石川啄木は三度ほど訪ねているという。
なお、前述の通り、野辺地の常光寺の隣には明治9年(1876)、明治天皇奥羽巡幸の際の行在所となった野村治三郎邸があり、そこで斃死した御料馬「花鳥」号の遺骸は常光寺境内に埋葬された。境内には、明治11年(1878)に宮内省より贈られた慰霊碑「花鳥号碑」が建てられている。銘文は当代きっての漢詩人、長三洲によるものである。石碑上部には大きく「瘞御馬銘」と篆刻されており、「御馬(おんうま)を瘞(うづ)むる銘」と訓ずる。碑面には、花鳥号を称える漢詩が刻まれている。
花鳥号はアメリカ産のトロッター種の馬であったが、長く御料馬として活躍し、明治天皇は深く信頼を寄せていたとされる。この石碑は明治天皇が作らせたのであろう。なお、野辺地町の愛宕公園には、昭和4年(1929)、花鳥号の等身大の銅像が建てられている。