#41 新楽府考
昨夜のNHK大河ドラマ「光る君へ」で、まひろ(紫式部)は図らずも一条天皇に拝謁し、白居易の「新楽府(しんがふ)」を引いて、科挙のような制度を日本にも導入すべきと説いた。歴史的にはこのような場面はありえないものではあるが、後に藤原道長の娘である彰子付きの女房として宮中に上がった際には、中宮彰子に対して「新楽府」を教授したことが『紫式部日記』に書かれている。なお、「新楽府」は唐代の詩人白居易の著作集である『白氏文集』に収録された諷諭詩50篇であり、平安時代の日本にも招来され、当時の貴族たちにとって重要な教養とされたのである。清少納言も『枕草子』の中で「文は文集、文選」と言い切っている。文集とは『白氏文集』のことであり、教養人にとっては必読の文献であった。
前に書いた「香炉峰の雪」同様、白居易は平安時代に一大ブームとなっており、漢学の素養そのものであった。唐の大暦7年(772)~会昌6年(846)の人であり、紫式部らよりも200年昔の人物である。漢詩人として著名であるが、科挙に合格し、政治家としても知られている。諷諭詩は政治批判・社会批判の詩であるが、楽府というように本来は音曲に乗せて歌謡として歌われるものであり、エンターテイメントの意味合いも強かった。批判しつつも苛烈さはなく、耳障りの良さが我が国で受けた理由ともいわれている。ただし、白居易本人は政治的直言が過ぎて左遷され、その後は閑適詩という仙境にあるような悠々自適の詩を好んだ。自身ではさらに感傷詩、雑律詩とジャンル分けしているが、感傷詩の代表格が「長恨歌」や「琵琶行」であり、これも日本ではよく知られている。
なお、白居易によると諷諭詩の本義は「己の能力を発揮する道が開けているときは広く天下を救済することに努めるべき」であり、閑適詩の本義は「自分が世に容れられないときは恬淡として自身を修めることに努めるべき」と明示している。
ちなみに、まひろが引用した「高者未だ必ずしも賢ならず、下者未だ必ずしも愚ならず」は、「新楽府」の中の「澗底松」の一節であり、文意としては、「誰も知らない谷底に立派な松の大木が立ち、天子が不足する木材を探し求めても枯死するまで気づかれることはない。天の意図は計り知れないのであり、高貴な身分の者が愚かで、卑賎の人物に賢者がいることは珍しくない」といったところである。
もともとあまり身分が高くない出自で、科挙により道が開けた壮年の白居易らしい諷諭詩である。「新楽府」所収の詩歌は似たような題材が多く、後宮の女性たちの驕りと悲哀、外国かぶれへの批判、若いときに嘲笑した老人に自身がなったなら早々に引退すべきなど、当時の世相を反映したものと考えられている。
なお、楊貴妃への批判でもある「胡旋女」は、以前筆者も胡旋舞という西方由来の舞踊について文章にした際に引用したことがあったが、当時は「新楽府」の中の一節とは知らなかった。