写真を学校で学ぶ必要性について。(覚え書き)
あ、このテーマに対してそんなに殊勝な考えがあるわけでは無いので、最初に謝っておきます。
すみません、ただの覚え書きというか日記ですので。
「写真を学校で学ぶ必要性について」
…なんて大それたタイトルをつけておきながら、あんまり大したことは言えないんだけど、仮に今ここに写真を学問として学ぶべきか悩んでいる人が居るとして、全ての人に同じようにお勧めは出来ないのだろうと考えていたりするの。
写真にまつわるテクニカルな知識は学校で学ぶのが一番かも知れない、けど今回の話は技術的分野は一先ず横に置いておきたい。
唯一、僕の意見の説得力となるのは、自分が過去にちゃんとした学校で写真を勉強をしてきたこと。
正直、その経験はアホな僕にとっては良かったとは思っているし、正しい道筋だったと感じているのだけれど、正直なところもっと頭のいい人なら必要なかったんだじゃない?という内容だったのも否定しきれないんだな。
だって学校行ってなくたって写真家として頑張っていて、有名になっている人は多くいるじゃない?それは現実なんだよね。
ただ、日本は特別、学歴で人を判断する場面が少なく無いので、すごいなーって純粋に思う。
結局、写真が何かを表現する媒体でしか無いわけで、写真が語る内容(コンセプトやテーマ)について詳しい方が写真作品を作る上で有利だってこと。
写真史をざっくり語ると、過去のどの時代において、どのような写真家が、どのような写真作品を世の中に提示し、どのような評価を受けたか。
大体そういったものだった。
現代写真論はそれを語る人によって内容が大きく変わるのだけれど、大まかには写真の表現方法(方法論)についてや、写真を取り扱う学者が写真作品の何処を見るか、何を読み取るか、そしてその根拠を学ぶんだよね。
なんでそのような勉強が必要だったかと言うと、カラー写真で伝えられること、白黒でないと伝わらないこと、フォーマットや画質の違いといった写真の使い方「方法論」が理解できていないと、自分が本当に伝えたい、表現したいテーマ(コンセプト)が現れた時に、写真を使って人に伝え難くなってしまうでしょう?
簡単に言うと、絵でいう筆の使い方やパレットの使い方だったり、文章で言えば、熟語の意味や、文法だったり…写真におけるそういったことを学校では学んだ気がする。(結構、前だからなぁ〜笑)
冒頭に方枠にハメるような事と比喩したのは、そういう意味。
でもね、写真業界はいつだって新しい表現を求めている。
名だたる写真のコンペティションも、目新しい表現を発掘する為に行われる。
そうすると、型枠にハメるのは本当に正しい行為なのだろうか?個人の表現の可能性摘み取ってしまうのではないか?という疑問も当然でてくるでしょうな。
そこで俺の先生方はよく、型にハメて出来たスタイルを崩せとよく言っていた。
結局、勉強から得た自分の理解の範囲で、予定調和からは、新しい表現は産まれないという事なんだろうと思う。
まぁ、それでも色々やってみて、さまざまな世界と関わって、魅力的な写真作品を産み出している作家は少なくないから全く無意味ではないし、基礎が分かっていれば発想の幅も広がるってものだから。
本屋で売ってる写真論とか、参考書でも写真について十分に勉強できるけど、自分の作品が他人にどう見えるかを知る機会は、写真の学校に通っていない限り自分で能動的に探して掴み取るしかない。
そう言った作家志望の熱意がある人は、逆にいいんじゃないかな。
アカデミックな場に身を置いてみても。
学校が態々教えているくらい難しい専門分野であるという側面もあるし。
でね、写真で伝えたいことって色々あると思う、具体的な知識や、個人の抽象的な感覚の話だったり。
そして自分が表現した作品が多くの人に知って欲しい情報であることもあれば、分かる人にだけ分かればそれでいい、そういう場合だってあるでしょう。
色々な人がいるように、色々な写真があるので、誰かの撮った写真を見せてもらう事は本当に楽しいと思えるようになる。
そう言った写真仲間ができて、人の写真が見られるのも、学校の良いところなのかな。
SNS時代に本当にそうなのかちょっと自信ないけど。
僕はあまり頭がよい方ではないので、なかなか自分の写真を撮るスタンスに落とし所を見つけるまで時間がかかったけれど(他の進化を迎える可能性を否定はしないが)、ふわふわっとなんとなくより、自分の写真を意識して行動する方が何かやってる感があっていいよね。うん。
そんなことを思いました。