本当は怖い内心の自由
あなたは正義を持っているかい? まあ持っていないという人の方が少ないだろう。じゃあ、その正義はこのところ誰かに避難されたり批判されたり誹謗中傷されたり──まあ簡単に言うと攻撃されてやしないかい? それはどうしてだろうね。
ところで話は変わるけど、あなたは誰かの心を読みたいと思ったことは無いかな? そうすれば自分に反抗する人のことを知れる、そして犯罪者になりそうな人も分かる。そんな夢物語を少し考えてみよう。
だがあくまでもこれは仮定の話、フィクションだ。用意はいいかい? じゃあ始めよう。
ある朝起きたらあなたは気が付いた。──どうやらあなたは人の心を読めるようになったらしい。
夫が口を開いていないのに声が聞こえる。──今日もまた出勤か、電車乗りたくない、上司嫌い、もう疲れた。
あなたは驚きひどく混乱する。でも、10歳になる息子がおはようと口を開くのを見て落ち着きを取り戻す。目の中に入れても痛くない可愛い我が子。最近では同級生の誰かに告白されたと自慢していたっけ。その心がまだ寝ていたいと言っている。それでも自分に挨拶をしてくれたことが嬉しい。
食卓では夫は急いで朝食を済ませてしまう。朝ごはんの感想は無し。いつものことながら、心の中でも何も言ってくれなくて、あなたは少しがっかりする。
でも、その目がテレビに移った瞬間、あなたは聞き逃せない声を感じ取る。
──このニュースキャスター可愛いな。
慌ててテレビを見ると、そこには最近結婚の噂がある女性ニュースキャスターが原稿を読む途中に謝っていた。どうやら噛んで読み間違ってしまったらしい。でも彼女の声は聞こえない。あなたは少し残念に思う。なんて思ったんだろうか、を聞きたかったのだ。
改めて夫を見ると、何事も無かったかのようにご飯を味噌汁で流し込んでいる。浮気の可能性あり、とあなたは心にメモを取る。
それから夫はすぐ席を立って出て行ってしまう。同じころ、息子も食事を終えて学校へ行く準備だ。
ドアの外まで息子を送り出す。ちょうど隣の家のドアも開いて奥さんとその息子が出てきた。自分より少し歳が下で少し美人。でも息子の出来はこちらが上よ。
おはようございます。お互いに挨拶をしてそれぞれの息子を見送って家に入ろうとして、信じられない声が脳に飛び込んできた。
──ああ、隣の家の息子は可愛いわねえ。お菓子で誘ったら一緒にご飯食べてお風呂入って一緒の布団に入ってくれないかしら。そうしたらあとは成り行きで──
その声はどう聞いても隣の奥さんのものだ。聞き間違えではとも思ったがそれを訊くことはできない。本当に人の心の声が聞こえているのか自分の妄想なのか判断がつかないからだ。あなたは混乱しながらも、自分が変人だと思われたくないくらいの自制心は残っていた。
きっと聞き間違えかなんかよね、とあなたは自分の気持ちに区切りをつけようとする。それでも本当だったら? 気持ち悪い。あの奥さんと息子は近づけさせないようにしようかしら、と心のうちに留めておく。
もやもやを抱えたままあなたは近くのスーパーまで歩いていく。朝市の時間だ。
外に出ると、人の心の声が一段と多くなる。あなたの脳は排気ガスのように流れてくる避けようも無い情報に混乱してしまう。面倒くさい、電車に遅れる、外暑いな。取り留めも無い日常の愚痴がほとんどだが、その中に聞き過ごせないものを発見してしまう。
ああ、あそこに歩いてる幼稚園児の列に突っ込んでいってみたいな。
信号待ちで止まっている自動車からだ。横断歩道を渡っているのはまだ4歳くらいの子供たち。いけない、と自動車に近寄っていこうとするが、あなたはすんでのところで思いとどまる。そんな証拠は一切ないのだ。心の声が聞こえるなんて、中学二年生になった長男でもあるまいし。それでも人命──とくに子供の命は見過ごせない。どうにかできないかとゆっくり近づいていく。
幸いにも、あなたが迷っているうちに子供たちは横断歩道を渡り終え信号は変わってその自動車も走り出す。
まあいいか、とあなたはスーパーに向かう。早くしないと目当ての品が売り切れてしまう、と速足で急ぎだす。
スーパーは人でごった返していた。猛獣の叫びにも似た心の声が、十重二十重の密の塊が、野菜を、鮮魚を、温泉の石鹸洗剤を邪教の宗徒にも似た狂気の形相で奪い合っている。
少なくとも雑多な声が聞こえないのでよかった、と目的の品を手に入れてレジへ行く。そうすると、並んでいる人の列で声が聞こえてくる。こうも混雑していると誰が言っているのか分からないけど、その中にもあなたには許せないものがある。
大地震が来たら家に帰らないで済むのに。今夜のオカズはあの本にしようかしら。あの中学校の女子制服可愛いんだよな。金払わないで逃げてえ。その数々に吐き気がこみ上げてきそうになる。
だけど、誰の声か分からないので何もできない。平然とこんな異常なことを考えていたのか、とあなたは愕然とする。
毛根根絶薬で世界中の人をハゲにしてやる、はレジ打ちのおっさんの頭が見事に光を反射していたので分かってしまった。吹き出しそうになってしまうのをぐっと堪える。
だが、スーパーを出る時にすれ違った男の声が一番脳を震えさせた。
──ドールを洗える洗剤あるかな。いつもの切らしちゃったんだよな。
同時に視覚に流れ込んだ少女の姿。だがおかしいのはぴくりとも動かないこと。そして、死んでいるかのように手足が投げ出されていること。違う。あなたは理解する。これは人形だ。
あなたはその人形が何に使われるか直感的に分かってしまう。性交の真似事。
なんておぞましい。
たとえ実際の人じゃないとしても、実在の人に被害が及ばないとしても、少女の身体を弄ぶような所業は人の枠に収めていいものではない。怒りのあまり振り向いた。しかし、その人はスーパーの中に消えてしまって探すのは至難の状況だった。他に人の心の中の映像が頭に入ってくることも無く、やりきれない怒りだけを持ってあなたは帰路につく。
家の中ではあなた一人で、変な声も聞こえなくて段々と気分がすっきりしていった。いつもより入念に掃除をしていくと回転音と排気音が耳を洗い流してくれるようだった。あなたは昼食を作る気にもなれず、洗濯を終えた後は夕方まで眠っていた。夕食はご飯をセットしてあとはあまりもので済ませてさっさと布団に入った。夫は今日も残業。息子が口を開いて出す無邪気な声だけがあなたにとって癒しだった。
翌朝、目覚めたら夫の心の声が聞こえなかった。耳を澄ましてみたら寝ぼけまなこの息子に変な目で見られた。
もういいや、と思った。実際に耳に聞こえるものだけで生きて行こう。あんな変な体験はもう懲り懲りだ。
でも──変なこと、異常なことを考えている人がこんなにもいるなんて気持ち悪い。いつか犯罪に走るかもしれない。そうなってからでは遅い。もっときちんとした心でいてもらわないと。
あなたは心の隅で思う。
──今度は自分の心の声が他人に聞こえるようにもならないかしら。そうすればおかしなことを考えていても注意できるしやめさせられるのに。
さあ、どうかな? 面白いジョークだっただろう。え? 笑えないって? もう少しユーモアを持っていこうぜ! 本気にすることもないさ。最初に言っただろう、これはフィクション。虚偽、虚飾の世界のこと。あなたはロボットではない。あ、ちょっと分かりづらかったかな。ヒトの心を読めるようになったロボットは悲惨な末路を迎えるしかないけどあなたはそうじゃないってこと。
それじゃまた、どこかで会うこともあるかもしれないけど今日はひとまずここでお開きお開き。