超算数 教師の横暴
小学校の算数教育において
昔から問題になってる事がある。
それは「掛け算の順序問題」と言い、
文章題からA×Bという式を得られる時、
B×Aと書いた場合、
不正解にするべきかという問題で
1972年に朝日新聞を発端として
議論が巻き起こるなど、その歴史は古い。
この議題において不正解にすべきと
考える人達は掛け算を
「1つ分の数×いくつ分」と
表さなければいけないと主張している。
だが、掛け算とは交換法則が成り立ち、
A×B=B×Aであり、=の意味から言って、
A×BとB×Aに数学上の区別は存在しない。
掛け算、というか乗法において、
左の因子を「単位あたりの数」
右の因子を「単位がいくつあるか」と
表すルールはなく、
A×BとB×Aには意味の違いもない。
意味は違うが計算結果は同じであるのでなく
意味も最初から同じなのだ。
式にした時点でA×BとB×Aに違いはない。
乗法とは2つの値を
掛け合わせる演算であって、
ある値をある値で演算する、
順序のある演算ではないのだ。
A×Bとは「AとBを掛け合わせる」
という意味でB×Aも同様であり、
「AとB」が「BとA」になろうと
意味に変わりはなく、
単に書いたり言ったりする時、
順番が付随するだけの事でしかない。
左の因子,右の因子や
掛ける方,掛けられる方なんてのは
そもそもなくて見かけ上の違いに過ぎない。
2と二の違いでしかない。
その違いを語る事は数学的ではないのだ。
文章題において「1つ分の数」の数が
先に出て、「いくつ分の数」が後から
出る事が多いから自然と
「1つ分の数」×「いくつ分の数」
という形になるだけでそれはルールではない。
実際、「4×100m走」などと
「1つ分の数」を後ろに表記する事は
社会において一般的に行われていて、
「1つ分の数」を先に表記する事は
ただの傾向に過ぎない。
だから、「1つ分の数×いくつ分」
でなければいけないというのは
個人的で勝手な主張でしかなく、
それを基準に採点するのは
個人的な信条,思想で
採点を変える事と同義であり、
教育の私物化、教師の横暴でしかない。
「1つ分の数×いくつ分」と
立式しなくてはいけないと
数学者が決めた訳でも
文部科学省が決めた訳でもないし、
ただ単にそう書く事が多いからと、
勝手にルールにするその教師の行為は
横暴以外の何物でもなく、
教育的意義も何もない。
算数を教える小学校の教師は
そもそも数学が何であるか
わかってない人も多く、
「1÷0=0」といった
零除算の問題を出す教師もいる。
教師に依って採点基準が
異なってはいけないし、
独自の採点基準を生徒に対して
使ってはいけないのだ。
また、そもそも、何が「1つ分の数」で
何が「いくつ分」なのかは
考え方を変えれば変わってしまう、
主観的で相対的な物に過ぎない。
例えば、3匹の猫に2個ずつ
餌を与えるとして、
多くの人は「1つ分の数」が2で、
「いくつ分」が4とするだろうが、
3匹の猫に1個ずつ餌を与え、
それを2周すると考えたなら、
「いくつ分」が2で、
「1つ分の数」は3となる。
それに、電流×電圧=電力や
縦×横=面積など、
どちらが「いくつ分」で
どちらが「1つ分の数」であるか
決められない場合も多い。
乗法において「1つ分の数」と
「いくつ分の区別」という
概念は本質的でなく、
限定的な、特殊な場合だけ
「1つ分の数」と「いくつ分の数」
を分けれる。
次に主張されるのは
「掛け算を順序で教えないと
子供に掛け算を教えられない」
「文章題で意味を理解してるか
試せれる意義がある。
順序を気にしなくていいのであれば、
文章題に出てきた数字を機械的に
掛ければ答えが求められてしまう」
といった意義,有用性だ。
確かに、掛け算を教える時、
「1つ分の数」を「いくつ分の数」で
掛けると教えないと意味がわからないし、
何を計算しているかの実感がないだろう。
2個のケーキが乗った皿が3皿あった時、
2+2+2と計算するのは
数えてる実感があるが、
3+3では実感がない。
だが、最初にそう教えるべきである事と
その考えをルールにして、
掛け算を理解した後も
守り続けるべきかは別の話だ。
掛け算を、「1つ分の数」を
「いくつ分の数」で掛けると教えた後、
円を長方形の形に並べた図などで
「いくつ分の数」を「1つ分の数」で掛けても
計算結果が変わらない事を理解させ、
「いくつ分の数」×「1つ分の数」
という立式でも間違いではないと
教えるべきだ。
それを理解した子供なら、
2個のケーキが乗った皿が3皿あった時、
3+3とケーキを数えられる事に
実感が湧くだろうし、
(実際に3のまとまりを2つ見つけれるから)
掛け算の順序を入れ替えても
結果が変わらない事を体験して、
実感的に理解してこそ、
交換法則を真に理解したと言える。
数学において、法則や公式は
使わなければ意味がない。
使って初めて正しい事を実感するし、
利便の為に法則や公式を使うからこそ、
法則や公式を覚えるのだ。
ただ、法則や公式を丸暗記するよりも、
実際に使って覚える方が健全な筈だ。
文章題を理解しているかを試せると言うが、
そもそも、文章題を理解するとは何だ?
掛ける数と掛けられる数の
区別は必要ないのに、
文章題のどの対象が掛ける数で
どの対象が掛けられる数なのか
理解したからなんだと言うのだ?
立式する為には
2つの対象が積の関係である事を
理解する事が必要であって、
どちらが掛ける数なのかなんて
理解する必要はない。
算数は計算する為に、必要な結果を得る為に、
機能する式を立式する物であって、
式自体には数学的な意味以外,必要ない。
式に必要な情報だけを
汲み取れれば何の問題もないのだ。
「3 × 2だと3本耳のウサギが
2羽いることになる」
と言った教師が過去にいたが、
掛け算の式にそんな情報は含まれていない。
単位を式に明記しても同じだ。
掛け算自体には数学的な意味しかなく
どちらが1個分かなんて情報はない。
数式には数学的な意味しかなく、
数学は数学でしかない。
2つの式が数学的に同じならば
数学のテストにおいても
2つの式は同じ物として
同じ正解,不正解を与えなければいけない。
そうしないのは数式から
数学以外の情報があると
妄想,捏造してるに過ぎない。
4人にりんごを3個ずつ配る時、
3個/人×4人=12個
4人×3個/人=12個(分母の人と
単位の人が打ち消される)
という風に順序を入れ替えても
単位は変わらない。
そもそも、先に言った様に、
掛ける数と掛けられる数の区別は
考え方でどうにでも変わるので
文章題を理解してるかどうかを
式から知る事はできない。
実際、伊藤宏という数学者が
小学3年生を対象に実験したところ、
「1つ分の数」×「いくつ分の数」
でない式を立式した子供でも
どうしてその様に式を立てたか聞くと、
文章題の意味を理解していた事が多く、
文章題を理解していても
子供は文章題に登場した順に
数を掛け合わせている事がわかった。
掛け算の順序から文章題を
理解してるか測る事など
全くできていなかったのだ。
文章題に出る数を機械的に
掛ければ答えになってしまうと言うが、
それは仕方ない事で
掛け算の順序を強制させて
どうにかなる事ではない。
外国の話をすると、
中国では因子×因子と、
対称的であると教えていて、
アメリカでは
「いくつ分の数」×「1つ分の数」と
書く習慣はあるが、ルールにはなってなく、
順番に関心がない。
掛け算の順序強制は
数多くの数学者が批判してきた。
フェルマーの最終定理の証明の一助となった、
有名な数学者の志村五郎は本で、
掛け算の順序について
4ページに渡って批判し、
「結局どちらでもよいのにどちらが
正しいかを考えさせるのは余計なあるいは
無駄な事を考えさせている訳である」
と締めくくった。
数学者の岩永恭雄,伊藤武広,小林道正,
萩上紘一,原田実,矢野健太郎,森穀,遠山啓、
算数教育史家の高橋誠、
京都大学理学研究科教授の上野健爾など
数多くの理数系の学者が批判し、
まともな理数系の学者が
擁護する事はなかった。
掛け算の順序強制は数学が素人の、
小学校教師が独断で勝手に作ったルールを
勝手に強制させ、生徒の教育を
阻害しているだけに過ぎない。
そして、掛け算の順序問題の様な
問題は他にもある。
名前は特に決められていないが、
言うなれば「図形の公式問題」だ。
いくつかに分けられるが
代表的な物を言うと
「正方形の面積を縦×横とするのは
間違いであり、一辺×一辺と
書かなくてはいけない」という考えだ。
正方形は長方形の1種であり、
長方形の面積は縦×横なのだから、
正方形の面積は縦×横なのだが、
そうテストで書くと×にする教師がいる。
「正方形の面積は?」と聞き
「縦×横」と言えば×と言い、
理由を問えば「正方形の性質を
十分に理解していないから」と
勝手な事を言う。
ある事を知っているか、
ある問題を作って測ろうとする時、
作った問題で予想外の回答、
予想外の正解の回答が来て、
その回答だと、そのある事を
知っているかどうか判別できないからと
×にするのは問題を作った側の横暴だ。
そうなってしまったのは
問題の不備のせいであり、
問題を作った人の責任なのだ。
小学校の算数では少しでも
一般的な回答と違うと×にする
超算数の教師がいる。
台数の面積をどう求められるか問われ、
「高さ×底辺÷2」と書いたら
「底辺×高さ÷2」であると×になったり、
正方形のイラストを見せ、
何であるかと問われ、
「長方形」と答えたら×になったり、
小学校の教師は個人的な価値観で
数多くの横暴をしている。
算数だけでなく国語でもそうで、
「擬態語は平仮名、擬音語は片仮名で
書かなければいけない」という考えがある。
「キラキラ」は間違いで「きらきら」、
「ピョンピョン」は間違いで
「ぴょんぴょん」だと言うのだ。
実際、日本語話者はそんな文法を感じてない。
そんな文法は日本語にないのだから。
宮沢賢治の小説で
「キラキラ」と書かれているし、
昔からそんなルールはなかったのだ。
こういった教師の横暴を防ぐには
採点基準を国が詳細に決めたり、
変な採点をされた時に、
複数の教師が話し合い、
教師が1人で暴走するのを
防がなければいけない。
掛け算の順序などの教師の横暴は
少数の教師が個人的に暴走している物で
教師全体が一般人よりも、掛け算の順序を
重視しているという訳ではない。
彼らは非常識なのだ。
だから、周りがしっかり確認して、
その非常識さを指摘しなければいけない。
数学を侮辱し、個人的な思想で
子供の数学的な成長を妨害し、
子供の成績を捻じ曲げる、
横暴な教師を矯正もしくは
追放しなくてはいけない。