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子育てにおける性的役割の非可換性とジェンダーレス論の誤謬

近年、夫も子育てをするべきであると、
主張されている。

この主張はジェンダーレスという
思想に基づいているので、
「夫が子育てをせず、妻が子育てをする」
「夫よりも妻が、より多く子育てをする」
という事を、因習や、
女性差別に過ぎないとする主張なのだ。

だが、はたしてそうだろうか?
そもそも、差別というのは、
環境的な不平等の事で、
結果的な不平等の事ではない。

例えば、女性に運動を禁止するのは差別だが、
女性が運動を禁止されていないにも関わらず、女性が運動を男性よりもしなかったとしても、
それは男性による女性差別とはならない。

なので、女性が男性よりも子どもが好きで、
子どもを育てるのが好きだから、
男性よりも女性の方が
子育てをしているだけなら、
女性差別とはならないのである。

では、女性が男性に対し、
自分と同じ量以下の、
育児を求めている場合はどうか?

だが、そもそも人はできない事がある。
そもそも男性は子育てができるのか?
できると即答する人は、
物事を外貌しか見ていないだけだ。

女性は子どもを育てるのに
特化した心と体を持つし、
子どもも女性に育てられる事を
前提とした心と体を持つ。

女性は子どもに母性を感じるし、
子どもは女性に被母性を感じる。

女性は子どもの表情や行動から、
子どもがどうしたいのかわかるし、
こうしたいと思った事をする事が、
その子供の為になる。

つまり、自然に接しているだけで、
女性は子供を育てられるのだ。

逆に、子育ての専門書を読んで、
子育ての方法を「情報」として、
会得しなければ、
子育てができないというのなら、
人類は絶滅している。

子どもが泣けば、あやしたくなるし、
子どもが母乳を欲している様子だったら、
母乳を与えたくなる、
そして、それが子の為となっている。
女性はしたいようにしているだけで、
子育てができるのだ。

女性が非言語コミニュケーション能力が
発達してるのは言語を持たない、
乳児の気持ちをわかる為にある。

そして、母親のあやしで子は安らぐし、
母親の母乳で子は満足する様に、
子は常に母親による何かを求めていて、
子にとって母親が世界なのだ。

では、それを男が真似したらどうなるか。
男は子育てをする為の、
心と体を持ち合わせていないし、
子どもは、男に子育てされる前提の
心と体を持ち合わせていない。

男は子どもが泣いても、
あやしたいと思わない、
いや、あやすという事の意味がわからない。
ただ、どうすれば、
泣き止むのかもわからず呆然とする。

あやせばいいという「情報」を
知っていたとしても、
人工的な男のあやしで偶然にも、
子どもが母親によるあやしで
起きる反応をするのかはわからない。

それに、男は子をあやす時、
何をしているのか、わかっていない。

例えるなら、
味覚や食欲の欠如した者の食事だ。
その者が情報に基づいて行う食事は、
食べ物を口に入れるべきらしいから
入れてみて、咀嚼するべきらしいから、
噛むという行為を繰り返して、
その後に飲み込むべきらしいから、
飲み込む。そんな食事だ。

つまり、男が子をあやしたり、
子育てをする時、それは作業でしかない。

あやしたいと思わないが、
あやすと子供にとっていいらしいから、
あやしてみる。
でも、子どもがあやされて
どういう気持ちになっているのか、
まったくわからない。
これが男性の子育てなのだ。

子供を育てる能力、
育てたいという感情は母性だが、
それが男性に少ないにしろあるのは、
女性に必要な乳首が女性にあるせいで、
必要ないのに偶然、男性にも、
未発達ではあるが存在するのと同じである。

ひどい例えだが、男の子育ては
男の乳首で授乳させようとするのと、
根本的に同じじゃないだろうか?

男性は、自身が親であるという感覚が弱く、
子どもも男性に対して、
「親である」とは感じない。

男性にとって自分の子は、
愛してる妻が自分とだけ性行為し、
自分に独占されている証みたいな物で、
愛している妻の子供、
愛している妻が大切にしている
子供でしかないし、
子供にとって父親は、
自分の母親を愛している男性、
物心つく前から同居している
男性でしかなく、
親しい男性の大人に過ぎない。
別にその人でなくてはいけないと感じない。

ある意味、男性は親でないから、
子育てができないのだ。
そして、親でないから、
子どもは男性を、父親を求めない。

真の親は母親で、男性は母親の夫で、
子供は母親の子で、子と父親は、
母親を通じて関係する程度の関係だ。

男の、子どものあやしは失敗しやすい。
子どもは母親を求めているのだから、
男性の実感の伴わない猿真似で
満足する筈がないのだ。

したとしても、偶然だろう。
母親の母性的行動に対する反応が、
父親の理性に従った行為に
たまたま誤反応しただけだ。

というか、思い出して欲しい。
甘えたい、くっつきたい、
なでなでされたいと思えるのは
体ゴツゴツで胸が固い男か?

女性の様な優しい声を出せない、
母親の声を出せない男に
何か言われても、
大型動物から威嚇されてるのと
同じようなものだろう。

子育てを父親がするのは、
母猫に人間の赤ちゃんを
与えたら子育てをするのか?
したとしたら、それで赤ちゃんは
正常に育つのかを実験しているのと同じで、 必要もないのに、
積極的に行ってるとしたら虐待だ。

また、男の子育てには重大な危険がある。
それは、育てられる子供が、
性別を正しく認識する能力を
持てない可能性だ。
他者や自身の性別を認識する能力は、
乳幼児の頃の学習によって獲得される。

つまり、もしも、周囲の人間が、
男性であるが女性の様に振舞っているとか、
女性であるが男性の様に
振舞っているとかしていると、
性別を正しく学習できない可能性があり、
性別を正しく認識できなければ、
同性愛者や性同一性障害となる恐れがある。

「男性であるが女性の様に振舞っているとか、
女性であるが男性の様に振舞っているとか」
とは、母親が子育てをしない、
父親的な立ち位置となり、
父親が子育てをして、
母親的な立ち位置となる事が含まれるし、 それがほぼ全てだ。

乳幼児にとって、自身を育てる母との関係が
「世界」であるので、
それが、正常に存在しないと、
子どもは正しく育たない。

子どもは母親という女性に育てられる
前提でできている。
母親という女性に育てられると、
正常な人間になるようにできている。

母性に欠けた暴力的な母親に
育てられれば、
社会的な能力を欠如し、
動物に育てられれば、
四足歩行をしたり、
生涯にわたって言語を失ったりと
人間としての何かが欠けてしまう。

人は母親に育てられるから
人間になれるのだ。

人はただ栄養を与えれば、
人間になる訳じゃなく、
女性が母親として、子育てするから、
人間になるのだ。

と、ここまで男性の子育てを否定した訳だが、
今、話したのは狭義の子育てだ。

実際には、心が通い合わない、
その必要がない行為、作業が子育てにはある。
例えば、オムツを替えたり、
粉ミルクからミルクを作ったりだ。
こういうのは男性でもできるから、
したいならすればいいし、
夫婦の間で労働の量に不平等感があるのなら、
それを是正する為にすればいい。

また、子育てというのは、
古代ではその子供の祖母となる人物が、
時々、母親の代用として、
行っていたりしたのだから、一時的に、
補助や代用として母親でない人間、
男性などが子育てをしても大丈夫だろう。

子育てに疲れた母親が、
気晴らしに1日だけ、
外に遊びに行きたいというなら、
夫はそれをさせてあげるべきだろう。

男性は子育てに置いて、
補助や雑務、代用に徹して、
母と子の交流を、
サポートしていれば良い。

ただ、どこまでいっても、
子育ての基本は母親で、
子育ての本質が母親だ。

男性は母と子の愛の形を、
後ろからひっそり、
手助けしたり、
守っていればいいのだ。


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