リア王とわたし
シェイクスピアは好きだが、『リア王』は好きではない。悲劇というのは、酷い目に遭う登場人物に「可哀想だ」と受け手が感じられなければ、悲劇ではないのだ。
わたしにとって、『リア王』は悲劇ではなく、ただの因果応報である。
年老いた国王が三人の娘達を呼びつけ、父への愛が一番大きいと証明できた者に領地を授けると告げるところから物語は始まる。上の二人の娘はお世辞を並べ立てるのだが、老王最愛の末娘は善良であるが故に嘘がつけず、父の怒りを買って国外へと追放され、これが悲劇の種となるのだ。
娘に自らへの愛を競わせるなど、まともな親のすることではない。もとより、家族だからと言って必ずしもお互いを愛せるわけではないし、子どもならば親を愛して当然だと、勝手に子どもを作った親の方が考えるのは傲慢である。
産んでやった親が偉いのだから子どもは親に絶対服従すべきなどという価値観は欺瞞かつ驕慢であり、むしろ生まれたいと一言も言っていないのに、無事に産まれてやった子どもの方が大切にされてもおかしくない。
領地欲しさに美辞麗句を連ねた上の娘たちの態度が、まんまと欲しいものを手に入れた後に豹変するのも、あのような人間が父親では仕方がないだろう。
それに豹変といっても、別にリア王を虐待するような真似を働くのではなく、ただ彼のあまりにもわがままな振る舞いに耐えかね、どう考えても多すぎる家臣を減らせだとか苦言を呈したくらいである。明らかに、娘ならば父親のやることなすことを全て許すべきと考えていたリア王の過ちだ。
こうして手に負えないリア王を邪険に扱い出した娘たちに、彼は「呪われろ」だとか「子が産めなくなってしまえ」とか罵詈雑言を投げつける。
いくら腹が立っていたといえ、少しでも大切に思っている相手に、ましてや自らの子どもに言うセリフではない。こんな人間に悲運が巡ってきたところで、同情なぞできなくても責められる所以はないだろう。
そう、リア王は悲劇の主人公として、あまりにも衝動的かつ暴力的すぎるのだ。
認知症である。
リア王も、長女に暴言を吐く直前には、自分への仕打ちにも何か理由があるに違いないと、きちんと娘の話を聞こうと決意を固めていた。
日本ですら2004年になってようやく差別的な「痴呆」から「認知症」へと名称が改められたこの病が当時どれだけ知られていたかは定かではないが、シェイクスピアが紡いだリア王の描写は、間違いなく認知症の症状だ。
だからと言って、娘たち二人の方が責められる謂れはない。もし、彼女たちが本当に父親を愛していたのなら、そしてリア王が愛されるに値する人物だったのなら、彼の横暴な態度は違和感でもって受け取られたはずである。
そうでなかったのは、彼が発症以前からそういう姿勢で子どもたちに接してきたからだ。
『リア王』は、子の育て方を失敗した男が老いた先に迎える“悲劇”なのである。シェイクスピアは彼を尊敬すべきヒーローには描いていない。
むしろ、後半からは消えてしまう道化と彼とを重ね合わせ、自身が持つ絶対的な権力への幻想に飲み込まれたリア王の愚かさと哀れさを強調している。
彼は末娘コーディリアを失った悲しみのあまり最後に命を落とすが、奸計を企てたリア王の上の娘二人や、庶子の息子を嘲弄していたグロスター伯、そして彼に度を超えた復讐を図ったその息子それぞれにも、報いとして死が訪れる。
過ちを犯した人間全員に、謂わばバチが当たるのだ。
コーディリアの罪は何だったのだろうか。甘い言葉で父親を喜ばせなかったことか、父親の横柄さを指摘せず、ただ娘として従順に彼を愛したことか。それともリア王という男を父親に持ってしまったが故のただの不運なのか。
わたしはコーディリアにはならない。