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「もう彼によって私の人生が脅かされることはない。」

前回に投稿した「82年生まれ、キム・ジヨン」の読書レポートの内容に関連して、個人的な体験を記録しておこうかな、と思う。
あまり気持ちのいい話でもないかもしれないが、私も同じ感情を経験したことがある、という人がいるに違いないと思うから。

母の死後、私は実父のことが強烈な重荷だった。父は愛情深い人でもあったが、人間関係、家計、規律や習慣などのバランスをとりながら日常を組み立てる、という文化的生活維持の技術に決定的に欠け、母なる役割の女性がいなければ破綻しないぎりぎり程度の生活しか維持できない人物だった。(因みに稼げる人でもあったがお金の管理が出来ない人でもあった。)無教養からくる尊大さや横柄さもあり、私はそれを不快に思い、とても恥ずかしいと感じ、同時に哀れだと感じていた。無教養は子供時代の貧しさや周囲の環境に関連している。

しかし、父のようなキャラはあの年代の男性に別に珍しくもないことだ(父は旧型の九州男児なので尚更)。なぜなら父の能力の欠落部分は「母」なる存在があれば解決するものだから。母なる存在が成人した男の日常生活の世話をやくのがあたりまえの世代の文化の中では問題にもならなかっただろう。

だからこそ私は怖かった。母が亡くなり、母なる存在を無しに父が老いれば、その生活のみならず人生そのものの崩壊は火を見るより明らかだ。母を亡くして10年ほどの間に、父が水が岩を削るようにゆっくり知的にも精神的にも肉体的にも衰えてくのを見るのは悲しいだけでなく、怖かった。娘である私が最終的には父の母になり、父が望む望まないに関わらず父を背負うのだろうという責任感が私を不安でたまらなくした。その不安には経済的な要因も含まれていたので尚更だった。思い付く限りの先手は打った。管轄の地域包括相談センターの場所を調べ、いざとなったら父が受けられる生活や介護のサービスを調べた。父の経済状況もチェックして「大きな破綻が起こって慌てる前に」と何も言わず口座に月々の送金もした。それでも父が寝たきりになるまでずっと、その存在が怖かった。私の人生を押しつぶしかねないと本気で思っていた。

父が脳溢血から寝たきりになって病院の外で生きられないまでに衰え、父に対して私ができることがほとんど何もなくなり、父が自らの不如意の怒りを私にぶつける気力も亡くなり、とても静かになった時、私は初めて安心した。切りつけられるような痛みを伴う、しかし深々とした安心だ。「もう彼によって私の人生が脅かされることはない。」

冷酷だと言われようがなんと言われようが、それは私の中で強烈な真実である。

(父の名誉の為に補足すると、父は子煩悩でこどもに手を上げたことなどない。子供の教育費も惜しまなかった。基本的な家事はでき、料理も好きで我々姉弟にお好み焼きやホットケーキをよく作ってくれた。私は父が愛情を持っている人であることを疑ったことはない。)

「82年生まれ、キム・ジヨン」でも描写されたように、母なるものに特定の役割を押し付ける社会構造はもちろん解決を目指すべき問題だと私は思っている。しかしそれによって救われるのは女だけではないとも思っている。産む性である女が「母の役割を担ってくれる人」がなければ幸せになれない男の子を育ててしまうというリスクを回避することになると思う。また、「男たるもの金がないなんて言えるか。頭を下げて介護を受けるなんてまっぴらだ。女に馬鹿にされてたまるか。」という自意識に認知症を発症してからでさえずっと苦しめられた、父のあの苦しみの種を男に植え付けないことにもなるだろうと思っている。

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