読書レポート) 粟田隆子 「ぼそぼそ声のフェミニズム」作品社 2019
フェミニズムの論客としては著者のプロフィールの意外性が群を抜いている。
彼女は現在パートタイムで働き、生活費の足りない部分を生活保護で補っているという。フェミニストといえば、高学歴で頭の回転が早く、舌鋒鋭い大学の先生やジャーナリスト、というイメージが一般的かと思うが、そのイメージを思い切り裏切っている。その著者の属性の珍しさもあってこの本はとても売れており、現在(2020年4月)大手の通販サイトでは品切れになっている。
高校は不登校を経験し、不登校の最中に女性センターの市民講座でフェミニズムに出会う。その後大学院まで進学するが大学院は中退。社会運動に参加していたがうつを患って仕事を失う経験もしている。つまり、彼女は「弱者の味方のエリート」ではなく自身が「社会的弱者」といえるかもしれない。
そのプロフィールに興味をもって読んでみたので、著者の個人的な経験の語りをついつい本の内容に期待してしまうのだが、著者はそんな読者の期待に迎合するために本を書いたのではないのは一目瞭然。本のタイトルの通り「ぼそぼそ」とした書きようで、舌鋒鋭く読んでいて爽快感があるような論理展開などはまったくなく、世の中に巧妙に隠された「差別」をとうとつと指摘している。
私にとって印象的であり、かつ著者の主張を象徴するのではないかと思う文章の一部を下に抜粋してみたい。
”(フェミニズムとは)どんなに頑張っても一定以上出世できない(させてもらえない)ガラスの天井に突き当たったり、母親になることで出世コースから外され、いわば「お母さん」コースを歩まされるマミートラックにはまり込まされるといったいわゆる優秀な女性たちだけのものではない。”
つまり、出世を望めるほど仕事ができる、結婚して役割を期待される母となれた、という女性は社会的に優秀なほうの女性だと著者は言うのだ。
さらに、
”「女は愚かだ(だから軽んじてもいい)」という古典的な差別に対して「女だから愚かだという括りはおかしい」という話はわかるが、そもそも「愚かだからかろんじていい」という発想に対してこそ、最も怒るべきなのではないか。”
この2つの文章を含め著書全体で主張されているのは、社会の要請に当てはまらない「優秀でない女性」の生きにくさは社会の仕組みの中でないことにされていないか、ということだ。
現在、フェミニズムが再び注目を集めている。雑誌の特集も多いし、関連本もたくさん出版されている。だから私も最近その手の本をよく読むが、とつとつと地味な疑問を書き連ねるこの本のスタイルは新しいのかもしれないが、主張そのものにはどこか既視感がある。上野千鶴子らバリバリのエリート論客と根底は一緒だと感じる。フェミニズムにもいろんな主張があるようだが、女性も男性並みにその能力を発揮できるようにせよ、という主張のフェミニストに対して、弱いものが弱いまま生きられないところに差別が潜んでいる、ということを繰り返し説いているフェミニストもある。著者は後者であろう。
ただこの本が新しいのは、その声をあげたのが「弱いもの」であるところだ。著者は次のように書いている。
”「弱さ」や「愚かさ」を帯びていても最低限の尊重を求めて生きていけるにはどうしたらいいのか?という問いを私はどうしても捨てることができない。”
こうなってくると女性差別との対峙というのは、障害者だから、性的マイノリティーだから、貧しいから、美しいから、醜いから、外国人だから、病気だから、その他にも色々ある差別への向き合い方と大差ないのかもしれない。ただ、あまりにも歴史文化的に長く社会シムテムに巧妙に組み込まれた差別であるがゆえに、差別される当事者さえも被る不利益にに気づきにくくなっているところが特異なのかもしれない。平凡な女性がありありとその差別の存在と過酷さに気づくのは、この著者のように「社会的に要請される女性像でない者」という立場に立った時に、この社会に居場所がないことに気づいてからなのかもしれない。
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