プリティ・グールズと《おてんば姫の戴冠》
「いつか語りたいな」と思いつつ、実際に書きはじめると何度も没が続いてしまうーーそういうことって結構あると思うんです。中でも私が手を焼いていたもののひとつが、プリティ・グールズでした。
プリティ・グールズは、モバゲー版シンデレラガールズの御伽公演『おてんば姫とまぢヤバな魔法のランプ』に登場したライバルユニットです。
「終盤に登場するけどラスボスではなくて、5戦して台詞をコンプリートできたらそれでオッケー」みたいなポジションにあたります。
ところが、ですよ。このユニットには終盤に登場しなければならない理由とラスボスであってはならない理由が、きっちりあったようなのです。
その上で彼女たちが、いわゆる《シンデレラの魔法》の秘密に迫るヒントでさえあるとしたら……再登場の可能性こそ極めて低いですが、なかなか入れ込みようのあるユニットに思えてきたりしないでしょうか。
とはいえ、このユニットについて調べたこと・気づいたことの全てを書くわけにもいかないのが、私としては難儀なところでもありまして。
たとえばグールについておしゃべりしすぎると「なんの記事なんだろコレ……シンデレラガールズとは関係ないのでは?」みたいなご感想をいただいても不思議はなく、それは私の望むところではありません。
また、フェアヘイレンさんの魅力についてちょっと触れておこうと思った次の瞬間、私は水本ゆかりのことばかり熱弁してしまい、考察内容の主従が転倒してしまうことでしょう。
そこで今回そういった事態を未然に防ぐため、私は以下のような方針をとることにしました。
・『千夜一夜物語』と『おてんば姫~』の違いに注目
・プリティグールズと他ライバルユニットの関係を調査
・シナリオ全体の流れを改めて提示
・リナ姫とプリティグールズが戦った理由を徹底追究
・それらを通じて《シンデレラの魔法》を考察
こんな感じに解決すべき困難を5つに分割することで、改めてみなさまにプリティ・グールズとその演者たちの魅力をアピールしてみたいと思います。
なかなか「快刀乱麻を断つ」とはいかず長文になっておりますが、よろしければどうぞお付き合いください。
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1,化人幻戯
御伽公演『おてんば姫とまぢヤバな魔法のランプ』は、基本的に『千夜一夜物語』の世界観を採用した公演イベントです。
このイベントには、ランプの魔神に悪魔にグール、さらには盗賊、冒険家、魔法使いなども登場して、リナ姫とアラジンの冒険を盛り上げました。
ただし、この御伽公演と『千夜一夜物語』の間には、公演のエピローグで明かされることになる、大きな違いがあります。
御伽公演『おてんば姫~』の根幹に関わるネタバレにつき、
空行を設けさせていただいております。
なにとぞご了承ください。
それは、語り部がシェヘラザードではなくジンニーヤ(=魔神)のナホだったことです。
「物語の最後に明かされた事実によって、お話の全体像がひっくりかえる」というのは、私のようなタイプのオタクにとってものすごくエキサイティングなことであり、また全体像がひっくり返ることの影響は、プリティ・グールズにも及ぶこと必定であると申せましょう。
ここはひとつ、語り部が魔神であることによって作品の何がどうひっくり返されたのかを、じっくり見ていきたいと思います。
さて、『千夜一夜物語』本来の語り部・シェヘラザードは人間の女性です。彼女は、王の非道を鎮めるために夜毎その傍に侍り、数多の物語を紡ぎました。
シンデレラガールズにおいては、SR[千夜一夜舞姫]ナターリアの特技や、SR[ミステリアスシエラザード]ライラに彼女の名が冠されており、このふたりは公演の後半戦でカメオ出演します。
どうもリナ姫とママーイ王子の婚約成立を前提に、祝宴に花を添える予定で女王に招かれていたようです。
しかしこの御伽公演におけるシェヘラザードは、踊り子ナターリア&ライラさん(今ではソル・カマルとして有名ですね。この公演における彼女たちも暁紅の女神ウシャスと夜の女神ラートリーに見立てられているようです)や語り部ナホではなく、別の作中人物として登場しています。
そう、ヘレンよ!
「見た目だけで判断するのはダメ」ーーこれは前作主人公からの実感がこもったアドバイスに近いものがありそうです。
というのも『千夜一夜物語』の王は、一見だけ(実際には兄弟揃って妃に浮気された上、魔神イフリートでさえこの種の出来事と無縁ではないと思い知らされた感じですが、まあ一繋がりの事件とみなしまして)で世界の全体像を規定してしまい、まるでハムレットのように自分も他人も不幸にしていたと言えなくもないからです。対するシェヘラザードは、王の一見を打ち破るために千夜一夜を費やすことを厭いません。
「百聞は一見にしかず」という格言もありますが、百聞で足りなければ千でもそれ以上でもーーそれが「摂理」に抗う人間の姿であり、リナ姫がプリティ・グールズに対抗するために必要な強さでもあるのだと考えられます。
あるいは全ての歌や物語が無意味だったとしても(私自身はそこまで悲観的ではありませんが)、それらとつきあう時間が経つうちに、かつては一見にすぎなかったものが二見、三見と積み重なることもあるでしょう。その結果として視界がひらけて世界のよいところを目にできれば、けっこう御の字なのです。
実をいうと、このテーマは一回性のものでありつつ、そうとばかりは言い切れないなにかを秘めています。
それはたとえば、舞台の枠を越えてグラブルのイベント『ロボミ 史上最大の戦い』で扱われたもの(引用画像でゾーイが言及している『理のひとつ』は、すなわち《一見》でしょう)であり、またシンデレラガールズにおいては幻想公演『黒薔薇姫のヴォヤージュ』で扱われたものでもありました。
開けてはいけない棺の蓋を開いたナターリア姫は、黒薔薇の呪いを受けて「絶望の歌」を歌いますが、その内容はいったいどのようなものだったでしょうかーー
画像はナターリア台詞Wikiさんからお借りしました。『黒薔薇姫~』は初期イベントゆえ復刻するのも難しい事情があるらしく、スクショデータをロストしてしまった私にとってWikiは大変ありがたい存在です。ビバ! 幸あれ! そしてナターリアちゃんCinderella Masterソロ曲『ソウソウ』発表おめでとうございます!
……さて、冷静になってみると、"um por todos" はポルトガル語で、検索すると「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」というチームワークの標語がヒットします。『三銃士』にも出てくることでお馴染みですね。
デレステのウワサによるとナターリアちゃんのパパはサッカーチームの指導者らしいので、もともとは "um por todos, todos por um." という形が、ナターリアちゃん自身にとって耳に馴染んだ言葉だったでしょう。
英語でいうと "one for all, all for one." になりますが、こちらもラグビーを愛する茜ちゃんのユニゾンSSR[軌跡のギフト]でライブ終了時の台詞として聴くことができます(お世話になっております)。
しかし問題は、言葉の全体から一部だけを抜き出すと意味が変わってしまう場合があることで、「絶望の歌」はまさにそれに該当しています。「みんなはひとりのために」が視界の外に追いやられるだけで、たちまち暗雲が立ちこめてしまうわけです。
「状況証拠というやつ、すこぶる油断のならないものでね」とホームズは考えぶかくいった。「どう疑いようもなく、ある一つの点を指しているかと思うと、一歩退いてほんのすこしちがう見地から見直すと、まったくおなじ確実さをもって全然別の方向を指していることもあるものだ」
ーーコナン・ドイル『ボスコム谷の惨劇』延原謙・訳
私自身が親しんできたジャンルからヒントをもらうとこういう感じになりますし、たとえば奇術も観客の視野や意識の外側を利用して◯◯を××することで拍手喝采を浴びようというジャンルなのでしょうけれどもーー「推理小説も手品もこの話には関係ないでしょ」という方には、ノワールよしのんのこちらの台詞を御覧いただきたいと思います。
そういえば、もうひとつの御伽公演『ふれあい狼と小さな赤ずきんちゃん』で、よしのん演じる赤ずきんちゃんは、フェアヘイレンさんの微妙な呪いを解くことができたヒロインでもありました。
自分の視野にあるもの、それがすべてなのか。
これは『千夜一夜物語』のような入れ子構造の物語を扱う中で浮上してくる論点のひとつでもあります。ちなみにこの問いは「推理作家や名探偵は、犯人を特定できるだけの証拠がすべて揃ったことを、なにをもって知るのか」という形をとって、いわゆる《後期クイーン問題》としてミステリオタクの関心事になったことさえあったのです。
そのため今回の考察は「メタってなんだよ、その概念を使ってなにが言いたいんだ?」というところにまで踏み込まざるをえませんでした。その先はおそらく自己言及に繋がっているあたり、なかなか億劫です。机の下からひっぱりだされるもりくぼちゃんの気持ちがわかるような気もします。……幻想公演の舞台に登場したPくんは、結構ノリノリだったわけですけれども。
なにしろ天才志希にゃんでさえ、自己言及をめぐって思わぬ落とし穴にはまったことがあるぐらいですからね……(Rêve Purが挑んだ試練もやはりこの種のものだったようなのですが、詳しくはまたいずれ)。
ともあれ、ハードルの高さを愚痴ってばかりいても始まりません。
ここはひとつ、手近な入れ子から、コツコツと探偵調査してみましょう。
幻想公演では「どうなってるんだ!」から「どうなっ」が切り出されることでドーナツ大好き勇者法子ちゃんが推参し、"um por todos, todos por um." から"um por todos"だけが切り出されて、「絶望の歌」になりました。
幻想文学の大家であるポオの代表作『鴉』もまた、このような言語の機能を利用しています。ドライに見れば、鴉は人間の会話から偶然 "nevermore" という一語を習い覚えただけですが、しかし確かにそれだけのことが観測者の内心を暴露する引き金になってしまったのです。
幻想公演における「絶望の歌」は、むしろこの詩のうちの一行に由来するのかもしれません。
遂にその人の「望み」は絶えて挽歌がただ一つの繰り返し句を持つ迄に、
即ち、「最早ーー最早ない」
ーーE.A.ポオ『鴉』福永武彦訳
【全体から抜粋された一部は独自の解釈を施されて、その正誤を問わず観測者に影響を与えてしまう】ーー私はこれをまず第一に、幻想公演世界(他の公演世界からは《幻想界》と呼ばれています)の理として認識することにしました。
さらに「公演イベントはシンデレラガールズという作品の一部であり、幻想公演は全公演のうちの一部(現状ではふたつ)である」という事実を踏まえたうえで、「幻想界の理は、幻想公演それ自体についても『全体から抜粋された一部である』ことを前提に自己言及している」のだとすれば、どういうことになるでしょうか。
なにしろ私の認識したそれは、公演世界における理のひとつ《幻想》なのかもしれないのです。ついでに申し上げるなら、この考察自体もまた『全体から抜粋された一部について独自の解釈を施すもの』であって、その正誤を問わずなにかしらの影響力を持つものかを、みなさまにチェックしていただいている真っ最中と言えなくもないわけですから……うーん、メタいですね。
(このような理は、公演世界という入れ子の外ーーシンデレラガールズという作品全体、ひいては私や貴方がいるこの現実世界にも影響を与えうるのでしょうか? 気になるところですが、答えを急いではいけません)。
『黒薔薇姫~』の場合は、"um por todos"が翻訳・複製に伴う誤変換(one for allではなくonce for allになってしまった?)を施された結果として「一事が万事を決する」とか「ただ一度の躓きがすべてを台無しにしてしまう」というような「絶望の歌」になってしまったものと、私は考えます。
世界を滅ぼすに足るたったひとつの理由ーーそれは『千夜一夜物語』で王が目撃したものであり、ナターリア姫が国民の前で歌うことを恐がるようになった理由であり、またフェアヘイレンさんが愛した黒薔薇の美しさだったのかもしれません。
* * *
もしもこの世界が金太郎飴のようなもので、どこを切っても同質で均一な情報が手に入るのだとすれば、王はひとつの理(=一見)からすべての過去・現在・未来を見通すことができるでしょう。
では、このような全知全能に伴って起きる具体的な事態としては、どのようなものが想定できるでしょうか?
神も命も、なにもかもくだらん。
ーーグランブルーファンタジー / ファーさんの台詞
なにしろ王は、世界のすべてを既に知り尽くしてしまいました。……世界は事実上「王が知っているものだけで十分」なのであり、現実に存在する世界は王の頭の中にあるものの模造品でしかなかったのです。
ということは、この文章にしたって、実はかつて王自らが筆を執ったことさえ忘れてしまった反故のコピーかもしれませんし、実は私など存在しない可能性が浮上することでしょう。
私に限らずあなたについても、似たことが起こらざるをえません。というのも、この話の前提条件として、この世界はどこを切っても同質で均一な情報が手に入る形をしているのですから、そもそも同じひとつの世界の切断面(または観測点)たる私とあなたの立場に変わりがあろうはずはなかったのです。
つまり、我々はかつて王が想像/創造した架空のものです。この世界は、いつか王が目を醒ました時に壊れてしまう泡沫の夢だったのでした。
この言い分に対して、もしもあなたが「そんなバカな」と考えるとしたら、それはあなたにとっての世界が、切り取り方によって異質で不揃いな情報を吐き出す不条理なブラックボックスだからです。
……さてここで、この「王」とは実はあなたの担当アイドルのことでもあるのだと考えてみてください。その見解を担当アイドルに披露することで、彼女に新たな一見を提供しうる可能性を備えた人物ーーあなたはPの素養を持っています。
* * *
こうして、「異質な情報」の顕著な例のひとつとして、Pが未登場/退場済みであるがゆえに滅びゆく世界の存在形式が、あちこちの彼女たちによって仮想されることになります。
フェアヘイレンさんの場合は黒薔薇が無人の世界をどこまでも満たし、ナターリア姫は国民の前で声がでなくなり歌えず、志希にゃんの場合はシャンデリアがガッシャン! するような情景(Pの死体があることはPがいることとは異なる現象です)を幻視しました。また、女帝セツナの場合はミス・ギャラクシーコンテストで1000連覇を果たしてしまいます(自分と並び立つ者に、それほど長く出会えなかったとは!)。
それらはいずれも、彼女たちの《経験した事実》というフィルムが《感性》という映写機を通して結んだ論理像(=ア・プリオリに真偽が決定されていない複合的な命題)です。
憧憬または憂愁を帯びた場面を投影されたスクリーン自体がひとつの入れ子であり、その外側になにがあるかは、入れ子の内にいる限りわかりません。
ひとは可能性のなかであらゆる可能的な仕方で道に迷うことがありうる、しかし本質的にはその形態は二つである、ーーすなわち追求的な憧憬の形態(希望)と空想的な憂愁の形態(恐怖ないし不安)である。
ーーキェルケゴール『死に至る病』斎藤信治訳
彼女たちはこの異質な情報=論理像の中に、再びあなたや私を取り込もうとするでしょう。その結果として「Pとともにある世界」と「P不在の世界」はどこが等しく、どこで異なるのかが露になります。
私が思うに、Pにはこのような試練が課されているのかもしれません。
彼女たちが幻視した黒薔薇の野や砕け散るシャンデリア、シューコちゃんが上手だとウワサされている影絵、奏さんや伊吹ちゃんが好む映画、神話において創世と関連付けられがちな巨人の骸(かつて世界そのものであった唯一存在の成れの果て)などの論理像のことを、ここではまとめてファンタズマゴリアと呼ぶことにしましょう。一般的には幻燈芝居とか走馬灯のことをそう呼びまして、それは『フランケンシュタイン』誕生前夜にバイロン卿がメアリ・シェリー他と読んだドイツの怪談集のタイトルでもあり、また、グラブルでいうとカリおっさんの2アビです。
カリおっさんは諸々の命題ーーたとえば『7日間かけて世界を創るより可愛い女の子1人創った方がいい』ーーをそのつどウロボロスによって真または偽と仮定し、これに魔法陣などの記号による操作を施す結果として、スペアボディができたりバフがかかったり、可愛い女の子より存在意義の僅少なものが崩壊したりするわけです(多分)。
奥義アルス・マグナも綴りを入れ換える言葉遊び・アナグラムと関わりがあり(anagramsのアナグラムがARS MAGNAです)、おそらく世界について記述した複合的命題のつながりを操作することで未知の論理像を生成する術法と推測できます。
実は、星晶獣コロッサスの命令領域でもアルス・マグナに似た情報の並び替えが起きていたらしくーーデレマスを読み解くヒントとして眺めるならば、このへんの話は蒸機公演に登場したスチームユカと無関係ではないようです(詳しくは、公演全体を扱った別の考察で触れます)。
アイドル・一ノ瀬志希が手がけた仕事のうちには錬金術師風の衣装が含まれており、加えて神バハ世界やグラブル世界にとんでいっちゃった経験があったことも、注記しておいていいかもしれません。
はっきり言ってしまえば、フェアヘイレンさんも女帝セツナも志希にゃんもシューコちゃんもカリおっさんも、世界創造の手順をなぞっているのであり、また可能性のなかで道に迷っているのでしょう。冒涜的といえば、まあ冒涜的です(それが私には面白いのですが)。
ちなみに楓さんは『命燃やして恋せよ乙女』では憧れのアイドル像がないと述べ、『Pretty Liar』では失望される恐れさえ知らなかったと告白しています。つまり彼女は嘘偽りなく「ありのままの自分」にこだわってきて、ミステリアスアイズに至るまでファンタズマゴリアとは無縁だったわけです(ユニークな人ですね)。しかし楓さんも世界が今ある姿だけでは満足できず、ダジャレという言葉遊びで目に映るものを再編集してきたと言えます。
アイドルがそれぞれの限界に突き当たる時期や、その真価を発揮した時の姿は、人それぞれでひとつに定まっていません。
しかしアイドルの誰にせよ、己の可能性を突き詰め、新たに別の像を結ぶためには、彼女たちの未知なる一見を誰かと共有する必要があります。
『千夜一夜』の王にとってのシェヘラザード、万能の魔女マギサにとってのグラン/ジータ。それが彼女たちにとってのPであり、Pにとっての彼女たちだとも言えるのかもしれません。
人間だれしも、ときどきは、自分の思考の危険なリズムから逃がれねばならない。
ーーレイモンド・チャンドラー『簡単な殺人法』
志希の文脈で言えば、《王が国中の乙女を殺し続けた理由》はシャンデリア妄想と関連しており、《王がどうしてもシェヘラザードの言葉に耳を傾けてしまう理由》はアイドルのお仕事と関連しています。
どちらもPを媒介して、ひとつに繋がっていますね。いずれも、可能性という迷宮がそなえるふたつの形態です。
私が思うに王は、シェヘラザードも殺された乙女たちも、同じく王の伴侶(=ふたつでひとつのものの片われ)として遇していたにすぎません。
[双翼の独奏曲]蘭子ちゃんの言葉を借りるなら、ふたつの運命を隔てたのは「我が剣を手にするか? それとも、我が剣と為るか?」の選択だったとも表現できるでしょうか。
王の伴侶は、いわば婚礼と表裏一体の関係にある王殺しの儀式の参加者でもあります。なぜなら妃は王子を生んで、その子が次代の王として即位するからです。
王は、力の衰えがみえれば殺されるか退位します。しかし王位継承ーー戴冠の儀が行われることによって、失われた力はよみがえり、次代の王に受け継がれるとも考えられました(フレイザー『金枝篇』などによると)。
その戴冠の儀に際して、伴侶は王の願いであり穢れであるものをともに背負うのです(例,グラブルにおけるゴブリンキングとゴブリンプリンセスや、真龍メイヴとアリル。シナリオ内では番とも呼ばれていますね)。
王の一見を覆せなかった乙女たちが殺されることは、王の有する「この世はくだらないものだ」という穢れと「どこかに素晴らしいものがあるはずだ」という願いをともに背負ったがゆえの論理的帰結(=ならば早くこの世から去れ)です。
あるいは、王位継承者が不在なので、王の死を身代わり(=伴侶、番)が務めたというのが妥当でしょうか。世界は王の頭の中にあるもののコピーなので、継承を済ませないまま死ぬことは許されません。
事実はどうあれ、「王の一見を覆せない者は、王と同じ一見を有している。危急存亡の時にあたってはその者を王とみなし、王(=世界)の死を肩代わりさせることができるはずだ」というファンタズマゴリア(=生け贄というシステムがある共同体に採用される理由として仮定されたロジック)は、このようにして像を結ぶことになります。
多少言い回しを変えてみると、この論理像はーー
明けぬ極夜の贄(にえ)となれ!
グランブルーファンタジー / ゾーイの台詞
ーーというのに似ています。「世界の均衡がいつも保たれていますように」という人々の願いから生まれたゾーイの場合も、この願いに反しつつ覆せない者に、己の死(願いの消滅)を肩代わりさせてきたと言えるでしょう。
このシステムは、かの有名なスフィンクスのなぞなぞとも関連しています。なぞなぞを解けない旅人が殺されるのは彼らが王の一見を覆せないからで、オイディプスの答えを却下できなかったスフィンクスが投身自殺する理由は、王位継承者=王殺しがついに現れたからです。
ゾーイは実にスフィンクス的な存在であると言わざるをえません(人間の上半身と四足獣の下半身を備えた戦闘形態からしても)。
例外なく全ての民が贄となって死に絶えたとき、それは、誰も覆せなかった王の一見(世界=私の退屈さ/残酷さに耐えうる者はひとりもなく、誰もがどこかへ姿を消してしまう)が命題として真になる瞬間でもあります。
もはや摂理に抗う者のいなくなった(ようやく均衡を取り戻した)世界には、「絶望の歌」だけが響き渡るのでした。……
とはいえ幻想公演の黒薔薇は、王/女神の一見(=魔王蘭子の幻想)を覆すのではなく、それを肯定するために殉死を選んだ乙女/騎士たちの魂だったと見ることもできます。
実際、他人からみてどんなにつまらなくてちっぽけで中二病でも、愛しいものは愛おしいという例に、私自身も心当たりがなくはありません。
世界を満たした黒薔薇は、痛みや苦しみを越えてただ「国破れて山河あり」と王/女神に寄り添う者たちーーいわゆる死の花嫁/花婿なのでしょう。
これはかつて私も説得力を感じたことのある、ちょっぴり酷なアイデアなのですが、仮に「この世はもちろん、あの世にも王を喜ばせる素晴らしいものはなかった」と考えてみてください。
しかしそれでも絶望しなかった花嫁/花婿たちは、「ならば自分自身が素晴らしいものになって、いずれ来る王を出迎えればよい」という選択をしたのかもしれません。
Your daddy's rich and your mamma's good lookin'
So hush little baby don't you cry.
ーーSummertime(デュポーズ・ヘイワード作詞)
私の聞くところでは、忠義者の彼/彼女たちは王の死を待ちきれず「こんな私、見たことないでしょう?」みたいな感じで、この世にちょくちょく現れるのだとか。その姿がKawaiiか、おっかないかはその時次第みたいですが、まあ、そういうお話が広く残っています。
たとえば「妖精の輪」や「死の舞踏」というのが西洋のそれで、考えようによっては日本の『こぶとり爺さん』もこの文脈で読むことができるでしょう。
體の肉に醉ひ癡れる戀人たちは 人間の
骨組のもつ 言ひ知れぬ風雅を解せず、
或るものは カリカチュールとお前を稱ばう。だが然し、
丈の高い骸骨よ、俺の貴重な好みには お前が適ふ。
ーーボオドレール『死の舞踏』鈴木信太郎訳
私が直観した黒薔薇の正体は、まさにそういうものでした。
咲いた黒薔薇の数だけ、"Amen(そうあれかし)"はあったのです。
それを鎮魂歌ととらえるか、子守唄ととらえるか、それとも世を去ってなお "The show must go on." と宣言する意志であるととらえるかは、個人の感性によるのだろうと私などは思います。
ぼくたちだって年くった子供にすぎない
ねるときが近づくとむずかるんだよ
ーールイス・キャロル『鏡の国のアリス』矢川澄子訳
たとえばデレステの『まほうのまくら』イベントコミュ大詰めで、脚本家氏が夢オチの処理に手こずった理由も、杏ちゃんとこずえちゃんのユニット・ららりるを採用した意味をめぐって、このような表現の取捨選択をしなくてはならなかったからではないでしょうか。その行き着くところにはやはり、自己言及が待っていました。
……さて、『千夜一夜物語』におけるシェヘラザードの場合は、「絶望の歌」に応じるアンサーソングを紡いで、王の目に映る世界を修復しました。いわば彼女は、王の剣をとってそれに殉じるのではなく、自ら王の剣となることを選んで新世界を切り拓いた(入れ子を隔てる壁を切り裂いた)わけです。
グラブルに登場する星晶獣ローズクイーンもまた、ひとりの空の民が彼女の剣となることによって、広い世界に旅立つことになったと言えるでしょうかーー正確には剣ではなく短剣ですけれども、それは「エターナル・ラヴ」と名付けられました。
グラン/ジータが8周年記念イベント『星のおとし子、空のいとし子』でコスモスと戦うことになる理由についても、ただ均衡を保つという以上の、かつてゾーイを生んだ願いに付け加えるべき新たな願いのためと考えられるでしょう。
幻想公演『黒薔薇姫~』もまた、やはりこのような表現と軌を一にしているという解釈を、私は採用したいと思います。
この解釈において、特訓前のフェアヘイレンさんは「絶望の歌(=one for all)」を、特訓後はPから教わったアンサーソング(=all for one)を、ともに「喜びをつむぐ調べ」と呼んで肯定していたことになります。
そして双方をあわせたものを「愛の歌(=one for all, all for one.)」として届けてくれるのです。
みなさまの中には「えー、幻想公演ってそんなお話だっけ?」とお思いになった方もいらっしゃるのではないでしょうか。
幸いなことに、モバゲー版シンデレラガールズでは、フェアヘイレンさんのカードにもボイスがついています。なつきちやほたるちゃんの名演と併せまして、[ヴォヤージュ・ヒーラー]水本ゆかりにもぜひぜひご注目ください(よろしくお願いします!)。
……いや、これは脈絡のない宣伝ではないので、ご容赦ください。
以上のような文脈を意識してみると、御伽公演『おてんば姫~』では『千夜一夜物語』や『黒薔薇姫~』と相補的な関係にある題材が提示されていたのではないかという発想に至ることができるのですから。
この公演でリナ姫が挑む「絶望の歌」は "todos por um(=all for one)" です。
あえて私が誤訳するなら《すべての試行はひとつの結果に収束する》……何度やっても同じこと、でしょうか。
たとえるなら底がぬけた桶で水を汲み続けるダナイードや、坂で岩を押し上げては転がり落ちるシーシュポスの地獄です。
今回の場合は「千夜も一夜も等価なものでしかない砂漠の世界」と言ってよいかもしれません。
これは《何度教えられても、わからないものはわからない》という不毛であり、反抗の意志でもあります。そこでは人を導こうとする善意も、陥れようとする悪意も、意味を持ちません。
最近開催された追想公演『Missing Link Memories』におけるミナミの頑なさなども、"todos por um"という絶望の歌に囚われた状態を思わせるものがありました。
「絶望の歌」として現れたはずの"Todos por um(=All for one)"を、「喜びをつむぐ調べ」に変えて世界を修復するお話ーーそれこそが魔神ナホに感銘を与えて彼女を語り部たらしめたものの正体であり、その場限りで消費されることなく追想公演にも受け継がれたテーマなのだと私は考えます。
では、そのような物語に登場するプリティ・グールズは、砂漠の魔と呼んで然るべきものなのでしょうか……それとも、ヘレンさんが言う通り「見た目だけで判断するのはダメ」なのでしょうか?
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2,仮面舞踏会
公演ツアーは素直に見たままを受け取っても楽しいですが、その裏に隠されたものを探るのも面白いーーそういうイベントです。
今回の場合は、《登場人物の肩書きはたったひとつしかない》という不文律を崩して、御伽公演『おてんば姫~』の世界を見渡してみましょう。
この発想は、童話公演世界の理【一人で何役を演じてもよいし、複数人がかりで一役を演じてもよい】が私に及ぼした影響だとお考えいただいても構いません(童話公演では仙崎さんが一人三役、奥山さんが一人二役、橘さんとフレちゃんふたりでアリスを演じました)。
ナホはランプの魔神で語り部、アラジン(サキ)は盗賊でアーティスト、ユウは魔法使いで愛犬家。リナ姫も身分は高いけれど庶民の間に溶け込める親しみやすさがあり、トキコ様は国務を担う女王であると同時に、娘に良縁を望む母親です。
一方、私はゆかりPなので、この物語の中でプリティ・グールズが果たした役割について、とても興味があります。
彼女たちの表向きの肩書きは《グール》です。
公演内では魔法使いユウに雇われた「賞金稼ぎ」を名乗っており、王宮への侵入者を撃退しようと逸るリナ姫にとってはまさしく排除すべき対象であるーーというのが、素直なものの見方に違いありません。
ところが、グールについて調べていくと、どうしてもある種の疑いが持ち上がってきます。
アラビアンナイトの世界におけるグールは、造物主によって火から生み出されたジン(その女性形がジンニーヤ)の一種です。
グールにも男女の別があるようですが、そのうちグール女性(グーラ)はまず結婚によって人間の共同体に潜り込みます。しかしグーラは人間としてあまりに禁欲的すぎるーー昼間は外出せず、無駄遣いもなく、浮気せず、食事もほとんどとらないーーことから、夫の好奇心を刺激してしまうのです。
夫はとうとう妻の夜間外出を尾行することになり、そこで妻の《おそろしい集会》を目撃します。グーラはみてはならないものをみた夫に呪いをかけ、動物に変えてしまう(この場合は犬。後に彼は、妻の姉弟子にあたる良いグーラに救われて人間の姿を取り戻します)のでした。
このグーラについては「あんたの奥さんも人間やねんから、悪いとこのひとつやふたつあるけど、完璧を求めたらアカンよ。とって喰われへんだけマシやろ?」というオチがつく笑い話なのだと解説されたりもします。シェヘラザードが王に聴かせるにはうってつけの話なわけですね(岩波文庫が採用したマルドリュス版千夜一夜でいうと861夜以降、『アリババと40人の盗賊』の直後に掲載されています)。
ただなんというか、この説明ってプリティ・グールズにほとんどあてはまらないのではないでしょうか。
作中の描写をみるかぎり、彼女たちはお金に目がないかのように振る舞っていますし、日中は出歩かないはずが、日輪の力でリナ姫を攻撃しています。
また、既婚者らしい様子がなく、動物を連れ回してもいません。
おまけにこの登場シーンでは「死に顔は、ちゃーんとメイクしてあげる」と挑発してくるほどですから、彼女たちは魔神ナホと同じく屍を食う鬼ではない可能性さえ出てきます(ちゃーんとメイクしてもらった遺体は、おそらく形を損なわず葬儀に送り出してもらえるでしょうから)。
アラビアンナイトのグールらしくもなく、さりとてRPGやホラーに出てくる敵モンスターとしてのグールらしくもないーーとなると、プリティ・グールズは、いったいなにをもってグールと呼ばれているのでしょうか?
これを私は、せっちゃん(井村雪菜ちゃん)がくれた謎として捉えました。
ものの本のなかには「グールは正当な埋葬がなされないことへの畏れから生まれた怪物だ」という説を唱えるものがありまして、墓荒らしなどの現実的な事件を背景にしている部分もあるそうなのですが……この見方によると、ペローやグリム兄弟の童話に出てくる人喰い鬼も、口減らしで森に棄てられた子供たちの安否と関わって、この慣習の是非(それは正当な埋葬か?)を問う存在という属性を帯びてきます。
……ちなみにこの公演で正当に葬られたものはユウの野望のみであり、他に死者や喪われたものはありません。
さらにもうひとつ重大なこととして、グールの特徴のうち既婚者という点に着目するなら、これに当てはまる登場人物は女王トキコ様ただひとりです。
女王として劇中にあらせられるトキコ様には夫があり、この夫とトキコ様の間に生まれたのがリナ姫でしたね。
また、時子様の生活には一点の非の打ち所もなく、さらには信奉者たちを豚にしてしまう不思議な力をもっておいでですが、こちらはみなさまもご存知の通りです。
私はこれらの情報から、ひとつのアイデアをまとめることができました。
もし仮に、女王トキコ様も魔神グールであり、プリティ・グールズはグールの集会におけるトキコ様の盟友であるとしたらーー
おそらくプリティ・グールズは「えー、結婚とかやだ」「自由にメイクできなくないですか?」「私もフルートのレッスンがありますので」みたいな感じで手を焼かせるグール族の問題児集団なのでしょう。
そして彼女たちは問題児であるがゆえに、女王の座につく大金星をあげた同族のトキコ様からありがたーいお話を伺うことで、豚を調教する意義とノウハウへの理解を深める必要があったのかもしれません。
……なんとおそろしい集会が、世にあったものです(多少青ざめた顔色)。
私はこれを【手がかかる子ほどかわいい、だからプリティー・グールズ説】と名付けました。わかりやすさ重視です。
この説が正しいとしたら、その時《魔神と人間のハーフ》であり、一度は結婚を拒否したことになるリナ姫は、魔神ナホやプリティ・グールズから見て、どういう存在だったと言えるのでしょうか。
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3,夜よ鼠たちのために
仮説は、既にある事実に対して新たな説明を加えるものでなくてはなりません。
リナ姫が魔神と人間の間に生まれた子であるとすれば、いくつかの出来事に説明がつくことになります。たとえばーー
Q1)リナ姫はなぜ人間離れした怪力をもち、猛獣(オオカミニナ、砂漠の三虎)と心を通わせることができるのか?
A1)人間と魔神(グール)のハーフだから。
Q2)女王トキコ様は、なぜリナ姫に結婚を強いたのか?
A2)それがグーラである彼女にとって正しい在り方(人間との共存・共栄方法)だったから。
Q3)リナ姫はなぜ結婚を拒んだのか?
A4)リナ姫にはグーラの生き方だけでなく人間の生き方も見えていたので、いきなり正しいグーラの在り方には飛び付けなかった。
Q4)リナ姫がジンニーヤのナホを怖れなかったのはなぜか?
A4)グールもジンも魔神という点では同じなので、リナ姫からすると人間と同程度に親しみを持てる相手にみえていた。
Q5)ナホが表向きは魔法使いユウに従いながらもリナ姫に共感していたのはなぜか?
A5)ナホは「他人の願いを叶えるだけの存在」としてみられることに飽き飽きして人を食った冗談(うーん)を口にすることもあったが、後半になるとリナ姫と過ごすことで「魔神と人間が手を取り合ってハッピーな世界を実現する」という構想に納得がいったから。
御伽公演『おてんば姫~』は、シェヘラザードではなく魔神ナホを語り部にした物語です。この中でユウは野望のために魔神を利用する存在であり、またアラジンの扱いをみての通り、人間との共存でさえ望んではいません。どこからどうみても悪役です。
しかしそれもまた《倫理的に正しい予定調和の世界から弾き出された人間が思い描く、ひとつの切なる望み》である以上、ナホには門前払いすることができません。
おそらくそれは、正当な手続きを経て埋葬されるべき夢だったのだろうーーというのが私の読み方になります。
これは、スパロボコラボ第二弾で莉嘉ちゃんがウーゼスと向き合った時の態度と、比較できるところがあるように思われます。
どんな愛も 愛は愛じゃん
どんなキミも キミはキミじゃん
ーー城ヶ崎莉嘉『SUPERLOVE☆』
ただ、魔神ナホには彼女があくまでも「願いを抱えた人を洞窟で待つランプの魔神」であるという制約がありました。彼女は同じ火から造られたジンニーヤであっても、人と結ばれて社会に紛れ込むことを選んだグールや、人を蔑んで堕天使となったイブリースではないのです。
ナホはまだ人間の愛を知らず、『SUPERLOVE☆』の境地にありません。
魔神グール族はおそらく、洞窟に閉じこもっていたナホよりも先に【人間のLOVEは、人間以外にとっても価値あるものか】という命題を発見しました。というよりむしろ、この命題をみつけたからこそ、グール族は人間の社会に潜入した(砂漠や洞窟の魔から都市の魔になった)のではないかと思われます。これはグラブルの例でいうと、星晶獣ローズクイーンが空の民に関心を持ってしまったその理由とほぼ重なっていたことでしょう。
この命題はもちろん真偽の秤にかけられることになるのですがーー真偽の秤はやはり公正なものでなくてはならず、判定にあたって誰か中立的な第三者が真と言えば真、偽と言えば偽になるような大雑把なものではありませんでした。そうではなく、もっともそれを証言するに相応しい専門家が、真か偽かを包み隠さず指摘しなければならないのです。
たとえば、アッキーの活躍を見てみましょう。
この画像のシーンにみられるリナ姫の奇策は、ユウとアッキーの間で「愛犬に骨を投げてはキャッチしてもらう」というコミュニケーションが日常的に繰り返されていたことを前提としています。
さらにこの策が通用することは、そのまま《人はひとりきりでは生きられない》というユウの隠された真実を白日のもとにさらす探偵行為とも言えて、そのため《人格も定かでない砂漠の砂粒のような人々の上に、ただひとりの王として君臨する》というユウの野望は自家撞着を起こし、頓挫してしまうのです。
命題を理解するとは、それが真であるとすれば事実はどうであるかを知ることである。
ーーウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』4.024(野矢茂樹訳)
実際、この王国の臣民達は、無個性な砂粒ではありません。それは町娘やバザールの商人、冒険家や盗賊団、宮廷のメイドや料理人、兵士、そしてアラジンとその仲間達によって明らかにされています。中には、別の公演世界で主役を演じたキャラクター(料理人ミユキや勇者ノリコ)もいるわけです。
女王トキコ様を補佐するクラリスさんの「陛下の手を煩わすには至りません」という台詞は、敵を侮るのではなく見定めた上での言葉だったでしょう(それを見定めるための情報はどのようにして彼女の手に渡ったのかーーという謎については、また後程)。
ユウは人間に許された範囲の外を望みながら、結局のところ人間でしかあり得ませんでした。イブリースが魔神に許された範囲を越えて造物主に(土から造られた人間よりも)愛されたいと考え、ついに反逆したもののその願いが叶わなかったのと同じようにです。
正直にいうと、これは美玲ちゃんのソロ曲『Claw my heart』やゾンビランドサガ(コラボお疲れさまでした!)、ひいてはウマ娘におけるメジロライアンの物語とも関わりのある話なのではないかと、私などには思われます。
分かってるひとりきりでは 生きれない
ならどうしてこんな想いが生まれたの
ーー『Claw my heart』
玉座を狙う簒奪者が、もしもその答えを知っていたなら、その時かの女王が亡国を目の当たりにする可能性は、どれほどだったのでしょうか。
雲間に光る 簒奪の勝機
覚悟を 宿命に突きつけて
天下に狂い咲く サガ
SAGA ーー『徒花ネクロマンシー』
ウマ娘に登場するメジロライアンもまた、【崇高な者が相手なら、私は敗れ去ってもよいのか】という命題に直面します。
これらはかつてフェアヘイレンさんが幻想公演の舞台に立つPに投げかけた「世界が黒薔薇で満たされる光景を…見たくはないのですか?」という質問にかなり接近しています。……いえ、接近というよりは、私の一存で大胆に言い切ってしまいましょう。異なる文脈上に現れた、元は同じものです。
この命題を偽と仮定することができれば、ウマ娘世界ではメジロライアンがマックイーンやパーマーたちとともに有馬記念の先に進むメジロ黄金時代が到来し、幻想公演のPはフェアヘイレンさんに、彼女がまだ知らなかった「喜びを紡ぐしらべ」の残り半分(=Todos por um.)を伝えることができるでしょう。
佐賀もリベンジしてサガになりますし、美玲ちゃんも「朝焼けまで進め」という歌詞に偽りない情景を、ライブ会場でファンと共有できるわけです。
しかしもちろん、この命題を真と仮定することもできなくはありません(そうでなければ、崇高という評価は意味を成さないナンセンスでしかなく、試練もまた存在できないことになってしまうからです)。
この場合に像を結ぶファンタズマゴリアとしては、既に述べた黒薔薇の野でありますとか、原初の星晶獣コスモスがグラン/ジータとゾーイの前に敗れ去る瞬間、星晶獣ローズクイーンが炎に巻かれて墜落する姿、他にもデレステではSSR[その身、果てるとも]財前時子の表現などを挙げることができます。
こちらはあくまでも時子様の出演映画の中だけのお話ともいえますが、「受け入れましょう。この万感の想いに満ちた、紛れもない破滅を」という台詞については、まさにその可能性に言及したものです。
その命題が真であれ偽であれ、「明けぬ極夜の贄」となることを拒む者は、朝焼けの目撃者になろうとしているーーという点は共通しています。
ウマ娘のアグネスタキオン風に言い換えるなら、「プランA/プランBのいずれを採用するにせよ、目指すものは限界速度の突破である」という感じになるでしょう。
真偽の天秤がどちらにかたむくかは、かくも際どいせめぎあいの果てに定まっているようで、それだけにリナ姫の勝利は貴重なものなのでした。
ユウの野望が正当な手続きを経て葬られたことによって、ナホはようやく、ユウの本当の願いを受け取ることができたようです。
ユウとアッキーは、自らが営んできた日々の帰結するところによって、手中におさめかけた王という不可侵の地位をなげうちました。さらには今後トキコ様の「おしおき」にも耐えなくてはいけませんが、その先でユウとアッキーのハッピーな日々が再び始まることでしょう。
こんなアタシだけど キミのおかげで
変われたような気がしてるんだ
ーー『LOVE☆ハズカム』
私が中身があるかどうかも保証せず振り回してきた「正当な手続き」の正体とはすなわち、古代から伝わる格言のひとつ【汝自身を知れ】です(ちなみに公演世界の理としては、後に友星公演でプリンセス・アカリによって発見されたのではないかと思います)。
ついにその可能性に思い至った時ナホが受けた衝撃は、志希の文脈でいうと『つぼみ』イベントにおける彼女の収穫にも値する喜びと驚きだったのかもしれません。
これはもしかしたら、イブリースでさえ再び世界秩序の中に迎え入れることができるかもしれないーーそういう可能性を秘めた物語です。
ナホはこうして自身の目撃した『LOVE☆ハズカム』を(作中の人物に許された時間的・空間的制限を超越した先にいる我々に向けて)語り継ぐ役を引き受けたのでした。
このお話はリナ姫の活躍をきっかけとしつつもそれだけで終わることなく、最終的に《祝宴の輪に加われず背を向けた者たちが、それでも大事にしているもの》によって、辛うじて成立することになります。
リナ姫自身も、女王から勧められたお見合いを断るという形で、一度は祝宴に背を向けたーーという流れが、ここで意味をもってきますし、そういうお姫様を演じる里奈ちゃんにしても、アイドルデビュー前には「アタシバカだから」という言葉で、華やかな世界から距離をとっていたところがないわけでもありません。
また、志希がリナ姫に共感しうることについても、ウェディングSR[純白の化学式]という実例があります。
祝宴に背を向ける自由ーーその先にあるものは、かつて街のスリ師に甘んじていたアラジンことサキが、それでも大事にしてきたものによって、明確に指し示されることでしょう。
我々は必ずしも意見や利害の一致をみず、争うこともあるけれど、それを理由に命をとろうとまでは思わない。
うーん、正しいですね。倫理的ですね。
敵の命さえ惜しむとは、なかなか愛なくしてできることではないでしょう。
しかしそれはア・プリオリに真であるようなこの世界の理(=真理)ではなく、魔神の論理(=常に同じ手順で解を導く記号の連鎖)でもありません。
それは、一人の人間が「善悪や貴賤や合理非合理はさておいても、私はこういう風に生きたい」と願った先にある極めて個人的な決断であり、また魔神グール族が人間とともに過ごすことを選んでみつけだしたそのつど真偽の秤にかけなければならない命題でもあったのです。
【人間のLOVEは人間以外にとっても価値あるものか】
またもや浮上してきたこの命題は、コインの裏表のようにふたつの側面をそなえています。なぜなら《人間以上のもの/世界がそれなくしては存在しないようなもの》も《人間以下のもの/世界中から見離されたようなもの》も、等しく人間以外だからです。
ゾンビランドサガ風に言い換えるなら、LOVEは「持ってる」「持ってない」の壁を越えられるかを問われています。
ゆえにその古びたコインの一面を磨いて泥や錆を落とせば、フェアヘイレンさんの文脈でいうところの「愛の歌(=one for all, all for one.)」は「神へ捧げるメロディー」たりうるかという問いがみつかるでしょう。
この命題は、かつて『ヨブ記』に登場したことがあるもので、もしかしたらフェアヘイレンさんも、一時はヨブと似たような弾劾を受けたことがあったかもしれません。
一体人が神に益を与えることができようか。
いな、賢い者も自分自身を利するだけのことだ。
君が義しくても、全能者に何のかかわりがあろう。
君の道を全うしても、何の益があろう。
ーーヨブ記 第22章
こうして、コインの裏に刻まれた文面はヨブの試練そのものをなぞりーー「祝福された人々が集う宴から弾き出されてなお、その者は愛の歌を口ずさむのか」という問いが見出だされるのではないかと、私は思います。
それは、シンデレラが舞踏会にどうしても出掛けたかったのはなぜか、病床にあった頃の加蓮ちゃんがなぜアイドルに憧れたか、事務所倒産を何度も経験したほたるちゃんがそれでもアイドルを諦められなかったのはなぜか、etc...ということとも重なる焦点のように思われます。
他にも、ゾンビになってしまったフランシュシュのメンバーや、国民の誰からも姫であることを忘れられたペコリーヌ、勝利を祝福されなかったライスシャワー、故障に苦しんでなおレース出走を願うテイオーやマックイーンなどを思い浮かべていただいても差し支えありません。
サキもリナ姫も、ユウもナホも、誰もがこのような摂理に抗う戦いの渦中にありーーその戦いのひとつが、リナ姫VSプリティ・グールズだったのでした。
彼女たちそれぞれの勝利(=Amen,そうあれかし)は、公演世界における理のひとつ《御伽》の存在を、私にもぼんやりながら予感させるものです。今はまだぼんやりですが、いずれ勝ち星の数が増えるにつれて、その存在は疑うべくもなくなってしまうことでしょう。
この理の内容は誰もが知っているあのお約束、【最後には大団円(=one for all, all for one.)が待っている】です。
もうひとつの御伽公演『ふれあい狼と小さな赤ずきんちゃん』もやはり、この理に違わぬハッピーエンドを迎えました。
幻想公演の理に縛られていたフェアヘイレンさん(コピー?)が、赤ずきんよしのんによって浄化された理由も、御伽公演の理によって一見を更新できたからと解釈できなくはありません。ふたつの理(いえ、童話公演や魔界公演、怪奇公演、友星公演の理も含めると六つですか)は、互いに矛盾せず共存することに成功したのです。
ちなみに怪奇公演の理というのは【観測者は現時点で目に見えないものについて述べつつ、目の前で起きていることについては沈黙することもできる】だと私は考えています(ホラーや怪談の基本ですね。あまり詳しく説明しすぎると怪奇公演のネタバレになってしまうので、今回はこれでご勘弁ください)。
魔界公演の理については、……次の項目でまた、期を見てお話しします。
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4,理想的犯人像
このあたりでそろそろ、改めて魔神たちの正体を暴いてみましょう。この御伽公演における魔神や精霊たちの中には、おそらくインド・イラン共同時代におけるヴェーダの神々が混じっています。
ゾロアスター教はこの神々をアレンジして善悪二元論の構図を導入することで、ササン朝ペルシアの国教となりました。
シェヘラザードに諌められた例の王様(シャフリヤール。ディープインパクトの子に同名のダービー馬がいて、海外で活躍中ですね)がササン朝の人であるという設定からして、これは無意味な一致ではありません。
語り部が人間シェヘラザードから魔神ナホにバトンタッチしたため、異教の神々の描写をする際に知人(知神?)の個性が反映されるようになったようなものでしょうか。
その結果が言語の女神ヴァーチュ(後にサラスヴァティーと同一視され、日本では文芸を守護する弁才天となりました)を正体とする語り部ナホなのかもしれません。
少なくともこの説は、私にとっての《楽しい嘘》であると言えます。
さて、以上のような立場から作品を眺めてみたのが、以下の見立てです。
ユニット「高貴なる女王の楽の間」
司法神ヴァルナ 財前時子
契約神ミトラ クラリス
月神ソーマ 望月聖
ヴァルナは天界の王、司法神であり、罪人を戒める縄索をもっています。これが時子様の気品と鞭で表現されていたわけです。
人の世から隔絶された天界はなにやら清浄な水に満ちているらしく、後に仏教では水天として敬われますが、もともとはアーディティア神群と呼ばれる太陽神たちの筆頭格にあたります。ゾロアスター教の主神アフラ・マズダと比較されるのもそのためです。
もしも女王トキコ様がヴァルナに比せられるとしたら、その侍従・護衛・近衛兵・侍医なども、なんらかの神格になぞらえられている可能性が高いでしょう。
ミトラはヴァルナのパートナーで契約を司り、天界にいるヴァルナと人間の間を取り持ってくれるのだとか。ゾロアスター教におけるウォフ・マナフであり、また後にミトラス教の主神ともなりますが、ローマにおけるミトラス教の祭がクリスマスのもとになったそうです。
グラブルにはミトラもウォフ・マナフも出てきますが、ウォフ・マナフの方がクラリスさんに似たデザイン(両目を閉じた聖者)をしています。
ソーマは月神である一方、祭儀に用いられる神酒が神格化したもので、讃歌の詠み手に詩的霊感を授けるとして多くの讃歌の中で重視されています。
その結果として神々の間でも顔が広く、時に調停者のような役割を引き受けることもあるようです。
詳しくは後述しますが、おそらくこの公演におけるユニット「水の精霊三姉妹」なども、聖ちゃんが演じる人物の庇護下にあるのではないかと私は考えます。
ちなみに、時子様とクラリスさんは、天冥公演でも天使長と上級天使でタッグを組んでいますね。
ユニット「プリティ・グールズ」
太陽神スーリア 水本ゆかり
アシュヴィン双神 一ノ瀬志希・井村雪菜
太陽神スーリアは「ヴァルナ・ミトラの眼」と讃えられるアーディティア神群です。「二重の誕生を有する」とされて天と地のいずれにも同時に存在するのだとか。天では太陽の運行を司り、地上では全ての有罪・無罪を判別する「ヴァルナの探偵」であるというわけです。グールには魂がふたつある、という伝承は、もしかしたら、ここにかかってくるのかもしれません。
そもそもリグ・ヴェーダ以前の文字がない時代に太陽神や月神を讃える語彙として相応しいものがなんだったか考えてみると、印欧祖語の語根"*ghel-"を想定しうるでしょう。これは「光る、輝く」のような意味を持ちglass, gold, yellow といった英単語の遠いご先祖さまにあたるそうです。
イスラム以前のグール(=ghoul)を「印欧祖語の語根"*ghel-"を用いて讃えられていた存在が、セム語派諸部族の言葉と常識で解釈された結果生まれた怪物」と説明した文献があるかはわかりませんが、今のところ私はそのように考えています。というのも、グールの語源ひとつとってもアラビア語・ヘブライ語・カルデア語など多数の説があってひとつに定まらないからです(印欧祖語は実在が確認されていないので、それがグールの語源だと指摘されないこと自体に不思議はありません)。
ともあれ、この線でいくと「プリティー・グールズは賞金稼ぎである」という設定は、アニメの島村さんの台詞「私だってキラキラしたい」やグラブルにおける「ミニゴブはピカピカを集めるのが大好きゴブ」という設定の、遠い親戚にあたる可能性があります。ぶっちゃけ「グリム童話の『蛙の王さま』は、ゲルマンの太陽神信仰やケルトの太陽讃歌と関係があるのでは?」みたいな話です。
さらにインド・イラン共同時代から時を経て、インド神話に登場するスーリアは英雄カルナの父としても知られます。これは雨乞いの儀式と関係のあることらしく、雨乞いにあたって「太陽と雲が戦い、雲が勝利する」というモチーフが採用された場合、スーリア(の子カルナ)はインドラ(の子アルジュナ)と戦って敗れることになります。
こちらは、「明日は晴れますように」とてるてる坊主を作るおまじないと対になる神話なのでしょう(やっぱりせっちゃんが活躍)。
つまり、ゆかり演じるグールが行使した日輪の力はスーリアの神性の反映であり、また「劇中の設定において、これに対抗しうるリナ姫の神性はインドラに近い」と推測する材料のひとつ(他にもあるので後述します)であると言えそうです。
アシュヴィン双神は太陽を牽く馬車の馭者で、スーリアとともにあります。
双子ですが「片方は神で片方は人間」ともいわれ、このあたりはスーリアと同じく「グールには魂がふたつある」ことと関連しているのでしょう。
馭者であることの象徴として今回はおそらく帽子が選ばれており、土と水の混成物であるリナ姫から泥メイクを教わる点にも、せっちゃんを起用した着眼点の良さが光ります。
これはその場限りの冗談とばかりは必ずしも言えない、アイドル井村雪菜の歩みと結び付くなにか(コスメティア帝国の女帝なども含めて悪役をこなすうちに掴んだ大事なもの)なのかもしれません。というのも、後にせっちゃんはアイドルバラエティのお仕事を成功させる中で、次のような述懐をもらすことになるからです。
だってシンデレラは頑張り屋でしょ、というわけですね。
ちなみに、ゆかりも最近では顔を小麦粉でパックするはめになったり、里奈ちゃんから「ココアクッキーサンドを牛乳に浸す」という食べ方を教わったりしています。
《劇の中で起きたことは劇の外でも起こる》と考えてみるのも、時には面白いですね。
ユニット「水の精霊三姉妹」
リブ三神(リブクシャン/ヴァージャ/ヴィブヴァン)
荒木比奈/鷺沢文香/成宮由愛
この三神の正確な名前は、知られていません。
というのも、彼らはアシュヴィン双神の馬車やその他いろんなすごいもの(大雑把)を作って評価されたのですが、その際にソーマ酒を受ける聖杯をひとつから4つに増やすなどして、偉い工巧神トゥヴァシュトリの面目を丸潰れにしたせいで恨まれてしまいました。
名前を隠して逃避行にあった彼らが、ソーマ神のもとに逃げこんで保護された時の偽名が、リブ三神なのだそうです。
おそらくはヴェーダと関わりない他部族の神(あるいは名工? 祭司?)を取りこんだので、真の名がわからないのでしょう。あるいはソーマ神と関わりを持ったため、「月を月と呼ぶことをタブーとして別の呼称を用いる」ことになった可能性もあるのでしょうか。真相は歴史の彼方です。
今回の公演では水の精霊ですが、これは「老衰した大地を若返らせた」という話や、杯と縁あることを強調されているのかもしれません。それも「大地を若返らせるものってなーんだ? 答え、洪水!」というなぞなぞが背景にあるとしたらの話にすぎませんが。……ヴェーダの場合だと、インドラが悪竜ヴリトラを打ち倒したときにも、そのような洪水に類する現象が起きたと謳われていますね。
ユニット「歴戦の王宮近衛兵」
アリアマン/ダクシャ/バガ
椎名法子/黒川千秋/上条春菜
ヴァルナを頂点に据えるアーディティア神群のうち、ミトラとスーリアは既に登場しました。残るアリアマン、バガ、ダクシャなどが彼女たちに比せられると考えてよいでしょう。
太陽のごとき王者の徳のうち歓待を司り、「乞わざるに与うる恵み深き」と讃えられるアリアマンは、ドーナツをお裾分けして笑顔の輪を作る法子ちゃんにぴったりです。
一方、黒川さんが意力・行動力の神ダクシャにあたるというのは、向上心が強く「歩いていて抜かされたら抜かし返す」ところをみると説得力があるかもしれません。
上条さんは「まあまあ眼鏡どうぞ」という名台詞に加えて、各種イベントやしんげきソロ発表(おめでとうございます!)などで先陣をきってきた実績があります。
他にも、メガネを意味する英単語"glasses"は、"*ghel-"から派生した語彙のひとつ"glass"の複数形という話がありまして……私がこの公演における上条さんを、「先導者」「賜物の実現者」などと讃えられる分配の神・バガに相応しいのではないかと考えた理由は、そんな感じです。
ちなみにこのユニット、幻想公演『栄光のシュヴァリエ』から出張してきたことを仄めかすような台詞があります。
魔界公演での表現を借用すると、この現象は「2番ゲートから来て、7番ゲートに向かった」と説明することができますね。
魔界公演もやはり公演世界の理のひとつ《魔界》をそなえていて、その内容はおそらく二度の魔界公演で二度とも扱われた題材、ハロウィンと関連しているのでしょう。すなわち【切り離したつもりでもあちらとこちらは繋がっており、定められた越境は歓呼の声で迎えられる】のです。
ユニット「オオカミニナ」ヴィシュヌ神
「砂漠の三虎」マルト神群
どちらもリナ姫のペットとして登場するのですが……どうも彼女たちは、軍神インドラの関係者のようです。
具体的にはオオカミニナはインドラの盟友・ヴィシュヌ神で、オオカミの姿はその化身(着ぐるみ)のひとつではないでしょうか。三虎はおそらくマルト神群かと思われます。
先に述べた「リナ姫の神性がインドラに近い」という推測は、リナ姫とプリティー・グールズの関係性だけでなく、水の精霊三姉妹や、リナ姫とペットたちの関係性も視野に入れることができるものです。
そこで、この仮説が成立するなら何についてどんなことが言えるのかを考えてみますとーーたとえばリナ姫がアッキーに投げた骨のおもちゃは、「神話においてはインドラの武器ヴァジュラであり、論理学においてはシェファーの棒記号に相当するもの」のメタファーなのかもしれません。キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』冒頭に出てくる骨を連想したという方も、おそらくいらっしゃることでしょう。
ユニット「砂海を渡る花の精」
激励神サヴィトリ 高橋礼子
牧畜神プーシャン 浅野風香
風神ヴァーユ 西島櫂
ユニット「バザールの商人たち」人間(ベドウィン族)
リナ姫一行が危険いっぱいの洞窟に入る前にアドバイスをくれる花の精たちは、ヒドルという種族ではないかと考えられます。ヒドルは砂漠を旅する者に救いの手を差し伸べる善い魔神で、緑色の服を着ています(風香ちゃんのビキニも緑色ですね)。
この魔神たちには旅人を励ます道祖神のような一面があることから、プーシャンやサヴィトリといったアーディティア神群に見立てられているのかもしれません。ヴァーユはインドラの関係者なので、リナ姫に助力したのでしょう。雲(西島さんは日を遮るサンバイザーをしていますね)を呼び花の種を運ぶ存在として、このユニットに参加したと見られます。
それともうひとつ。彼女たちがヒドルであるとすれば、砂漠の旅人の典型例であるバザールの商人たち(おそらくベドウィン族をイメージしているのでしょう)と接点を持っていても不思議はないことになります。この関係性の連鎖が、リナ姫をある絶体絶命の危機から救うきっかけになるようです。
リナ姫が商人チエちゃんから買い求めたアクセ……もといお守りは、この花の精/ヒドル/プーシャンたちから仕入れたもので、邪視を防ぐ効果を備えていた可能性があります。なぜというに、仮に人間が太陽や風に巻かれた砂塵に邪視をしかけようとしても、それを直視すれば目潰しを食らうのが理の当然だからです。
邪視の効果にもいろいろあって、突然死や石化などが有名ですが、特に今回の公演で使用されていたと想定されるものは、ユウの洗脳魔法です。
ユウがアラジンを洗脳して味方につけた一方でリナ姫を見逃してしまった理由は、作劇上の都合もないわけではないでしょうけれども、それ以上にこのお守りの効果として正当化されるのではないかと私は考えています。
千枝ちゃんはこの公演の思い出から、邪視を防ぐお守りのことをうっすらと覚えていたのでしょう。後に千枝ちゃんがギリシャアイプロで「イービル・アイ」と呼ばれるお守りを手に取ることになった背景には、そんなエピソードも想定できるのでした。
護衛ミズキ アグニ/アパーム・ナパート
王宮ナースキヨラ ヴァータ/ルドラ
イベント復刻のMaster追加で登場したこのお二方、いずれもトキコ様の王宮に専門的な技能をもって召し抱えられているという共通点があります。
リナ姫がインドラの神性と関わっているのなら、姫と親しくアラジンを治療するナースキヨラさんが、暴風雨と縁ある医療神のポジションにあることは疑いないでしょう。
アグニは儀式に用いられた聖火が神格化されたもので、神酒が神格化されたソーマ神と似た由来を持っていると言えるかもしれません。
スーリアと同じく「二重の誕生を有する」神であり、天と地の両方に同時に存在するとされ、さらにはアパーム・ナパートとして水の中にも存在するのだとか。なんでもありですね。
聖火だけあって破魔の霊験あらたかとされていますから、「じゃあ水中の魔物には無力なの?」「いや、水中でもめっちゃ効くで」という調子で無邪気な質問に答えるうちそうなったのかなーとか、私は想像しております(うーん…)。
ちなみにグラブルにおけるアパーム・ナパートは、ヴァルナの召喚効果で水属性攻撃です。護衛ミズキもそのようにしてトキコ様にお仕えしているのでしょう。
ユニット「洞窟のガーディアン」
サラマー 日下部若葉
サーラメーヤ 早坂美玲・棟方愛海
洞窟にいる三頭の「ビースト(美玲ちゃん談)」です。最初は「お山大好きな愛海ちゃんがいるし、ガンダルヴァかな?」とも思ったのですが、よく考えれば洞窟は冥府の入り口として認識されがちなロケーションでもあります。
ヤマーーすなわち後の閻魔大王には二頭の犬(サーラメーヤ)が従っているという話がありまして、そこに犬たちの母であるサラマーを加えると三頭になりますね。美玲ちゃんと愛海ちゃんは鋼鉄公演きらりんロボでも「タイニーキメラ」としてタッグを組んでいますから、ふたりがサーラメーヤで若葉さんがサラマーにあたる役柄でしょう。
ところで、この洞窟が本当にヤマに管理された冥府に模されているのだとしたら、リナ姫は「あの世とこの世を行き来する白鳥乙女(ウルヴァシーやブリュンヒルデなど)」や「神から盗んだ火を人にもたらす文化英雄(プロメテウスなど)」といったモチーフとも関わっていることになります。
さらに洞窟にいた人間たちは何者なのか考えてみると、たとえば紗南ちゃんたち冒険者一行はヴァルハラの戦士の候補生のようなもので、唯ちゃんたち盗賊団は神の火を盗む可能性を秘めた逸材なのかもーーと想像して楽しむことができそうです。
もしかしたら、この公演の洞窟で起きた出来事は、ギリシア悲劇でエレクトラが父王アガメムノンの墓参りをしてオレステスと再会する場面や、グリム童話の灰かぶりが母親の墓参りをするシーンと関連付けることができるのかもしれません。
それは灰かぶりがもっとも舞踏会から離れて愛を忘れなかった場面であり、墓は《シンデレラの魔法》が始まる場所とも言えるからです。
思い返せば、公演ツアーというイベントそれ自体もまた、幻想公演のナターリア姫が魔王蘭子の墓を訪れることから始まったのでした。
あらゆる詩人の墓が彼の詩を集めた書物であるように、魔王蘭子の墓もそれ自体が一冊のグリモワールだったのでしょう。しかもこのグリモワールは、ひとりでは完成させられないものについての記述をまとめた書物だったのです。
ユニット「禁じられた財宝」
クベーラ(毘沙門天)/羅刹/夜叉
ユニット「シルクロードの案内人」
シューコ ダキニ天
カコ 吉祥天
フレちゃん・梨沙ちゃん・冴島さんの賑やか三人組です。RPGでいうとダンジョンのミミックみたいな役どころですが、本当に彼女たちがミミックなのだとしたら幸子ちゃんがメンバーにいないのが気になりすぎます。その一方で彼女たちがあからさまに只者ではない(人間ではない)ように見受けられるのも確かです。
そういう理由から、私は彼女たちを地下に蔵された財宝の神・クベーラにあたるのかもしれないと考えました。遥か後世の日本では毘沙門天として有名ですね。
シルクロードの案内人として登場したふたりについても、シューコちゃんはダキニ天、茄子さんは吉祥天を演じていたのかもしれません。……いや、証拠はないのですが。もとより簡単に尻尾を掴ませてくれるお人でもないですからね。
ユニット「ダークケイブデビルズ」
「ソウル・デバウアー」
彼女たちの正体はイブリースです。グールと同じく造物主によって火から生み出されたジンの一種ですが、土から生み出された人間たちを蔑み、人間に奉仕することを拒んだため造物主の手で地獄に落とされたといいます。
グラブルでいうと、ファーさんのNが50%で撃ってくるやつです。
このイブリースたちは、アラジンのような輪から弾き出された人間ではなく《祝宴の輪にいる者を外に連れ出そうとする存在》です。一神教における堕天使であり、「悪魔」と称する理由はそのあたりにあります。
誰がどの悪魔を演じているのかという問題については、「六人がかりでもって、いわゆる七大罪の悪魔を仄めかしているのではないか」という以上の追及は控えたいと思います。
杏ちゃん(のぬいぐるみ)は怠惰を司るベルフェゴールとしてグラブルに出演したことがありますが、怠惰だけあってこの公演には出演していません。休みを勝ち取ったんですね……。
実は彼女たちの存在もまた、『シンデレラ』と『千夜一夜物語』を繋ぐ架け橋といえるかもしれません。
「リア充の眩しさが天敵」という台詞は、祝宴の中に魔を退ける儀式が組み込まれていることと関わっていて、それは《シンデレラの魔法》の一部だと捉えうるのです。
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5,永劫の庭
唐突なようですが、シンデレラガールズの作中で演奏されたクラシック音楽のなかに、ベートーヴェンの第九があります。
ゆかりはこのステージで「心が落ち着かなくなる」ほどの感動を受けており、私はここ数年ほど第九ーー中でも『歓喜の歌』がどうしてそこまでゆかりを感動させたのか、突き止めようとしていたのでした。
これは奏者としての水本ゆかりがウィーンに憧れていることや、星花さんにウィーン留学経験があることと関係して、私には大問題だったのです。
更には最近、琴歌さんの最新SRまでもが「歓喜のうた」を特技名として選ぶに及んでいます。
細かいことをいうなら、第九の初演もウィーンであり、その会場となったケルントナートーア劇場の跡地には、現在ホテル・ザッハーが建っています。ザッハトルテで有名なホテルですね。
2019年のバレンタインにゆかりがザッハトルテをくれたことと考え併せると、もしかしたらこの謎は、ゆかりからの贈り物なのかもしれません。
しかしさらに2020年、ゆかりがバレンタイン限定SSRとして登場したにもかかわらず、残された謎はまったく古びないまま、ゆかりPである私の目前でその封印が解かれる時を待っていたのです。
……「待っていたのです」じゃないでしょうに、本当。うーん、ゆかりちゃん許して。とはいえ今現在ということであれば、私も自分なりの答えをみつけたつもりでおります。
そんなわけでここはひとつ、私がかつてその理解に苦しんだ表現をそのまま、引用してみましょう。
ひとりの友の友となるという
大きな成功を勝ち取った者
心優しき妻を得た者は
自身の歓喜の声を合わせよ
そうだ、地球上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい
(wikipedia記載の訳詩から一部を引用)
ベートーヴェン……のものであると同時にシラーのものでもあるこの表現は、こずえ・星花・ゆかりの三人がハーモニック・クラウドというユニットで歌ったもの(もっとシンプルな岩佐東一郎訳のものもありますが)であり、また間接的には、楓さんの第二ソロ曲『Blessing』にも、その関連を仄めかす歌詞が置かれているようです。
泣き虫は無視して ココロ踊る世界に酔いしれていたい
ツユクサの雫 消えないうち 急いでさあ出かけよう
思いきった話をすると、このような詩句について「ちょっぴり残酷だな」と感じる方もいらっしゃるのではないでしょうか。シンデレラが王子の求婚を受けた後に、継母や義理の姉たちを排除する場面も、時に「残酷だ」と指摘されますね。
しかし今思うに、それらの残酷さは「いたいのいたいのとんでけ」のようなおまじない(魔除けの呪文)に伴う必然なのだと考えられなくはありません。《シンデレラの魔法》もまた、その性質を受け継いでいるといえばよいでしょうか。
童話や『歓喜の歌』に魔を退けるための詩句が現れる理由はおそらくシンプルで、無垢なる魂を堕落させることが、悪魔の為すべき仕事だからです。その標的には、子どもや喜びの最中にある者こそが選ばれやすいはずだとも言えるでしょう。たとえば『ヨブ記』などもそういうお話でした。
前段で少し触れた「ダークケイブデビルズ」「ソウル・デバウアー」のようなイブリース(悪魔)たちは、まさにこの魔除けの対象であったといえましょう。
では、シンデレラガールズという作品は、この種の魔法についてどのように解釈し、表現しているのでしょうか。
転んだ時 そっと呟く
痛み止めのジュモンがあるの
"明日はもっと輝いてゆく!"それは
自分励ますエールに変わる
ーーM@GIC☆
実際にこのジュモンもまた、《思うように輝けなかった今日まで》に対して「いたいのいたいのとんでけ」と唱えることと表裏一体だと捉えられなくはなさそうです。
「ジュモン」という手続きを取ることによって魔なる己を隅に追いやり、代わって聖なる己を表に立たせるーーあるいはその逆を行うのが「魔法」のシステムなのだと仮定してみましょう。
それは元来同じひとつだったものを一旦ふたつにわけることで心を整理し、改めて現実に対処する力を得るための暗示です。
しかし泥水が土と水に分離しても全体の重さに変化がないように、聖なり魔なりが完全に滅びて、ひとつが半分になることはありません。
プリティ・グールズがリナ姫と戦った時の《魔法》も、実はこの原理を利用したものでした。
泥水を土と水にわけて「命の水(形而下では汗であり、形而上では神性であるもの。志希にゃんの文脈に乗せるなら秘密のトワレあるいはエリクシルと解釈することもできるでしょう)」を奪うと、「人は土、元に戻るだけ」つまり魔神と人のハーフであるリナ姫の超人的な力が、一時的に喪われます。
こうしておけば、アラジン(サキ)を救うために無謀な突進を繰り返すリナ姫を阻止できますね。
私の立てた仮説によると、プリティ・グールズは人間男性と番になることを避けているグール女性です。同族からは嫁入りを急かされ、集会ではトキコ様からもこの種の説得を受けている真っ最中と考えると、半ばはトムとジェリー的な息抜きのいたずら心から、トキコ様に反逆の狼煙をあげる計画を練っていたかもしれません。
そこにちょうど都合よく魔法使いユウが現れたので、「地獄の沙汰も金次第」的な提案をしてみたところ、それがうまくいったのでしょう。
しかし、プリティ・グールズは自分達と同じく結婚を拒んでいたはずのリナ姫が、やっとみつけた番のピンチに駆けつけるべく「泥だらけ」になって奮闘する姿を見て、心を動かされてしまいます。魔神ナホと同じように、リナ姫に感化されてしまったのです。
なぜそんなことで心が動くのかわからないまでも、自分に嘘をつくことはできなかったのでしょう。つまり彼女たちは「祝福された人々が集う宴から弾き出されてなお、その者は愛の歌を口ずさむのか」という一族が抱える命題を真偽の秤にかけて、とうとうその解を導いたのです。
こうしてトキコ様に逆らう理由を失ったプリティ・グールズは、悪びれることなくユウ側からリナ姫側に鞍替えします(事件後ユウに下された処罰が「おしおき」で済んだ理由は、おそらくここにもあったでしょう)。
その際に彼女たちは、王宮の状況やユウの保持戦力、リナ姫の番について、クラリスさんに報告することで、女王トキコ様へのとりなしを求めたと考えられます。
クラリスさんは、プリティ・グールズがもたらした情報を、兵隊や王宮近衛騎士からの情報と照らしあわせ、トキコ様に上奏したのでしょう。
リナ姫自身の言葉も、その内容の真実性を保証するものでした。
自分の思惑と完全に一致しないまでも「リナ姫が番をみつけて戻ってきた」という情報は、とこしえに栄えある御伽界の女王・トキコ様の御心にかなうものでありました。リナ姫にお見合いをすっぽかされたママーイ王子にも、改めてプリティ・グールズとご歓談していただくという選択肢が生まれたかもしれません。
さて、事件解決が改めてリナ姫に命じられると、姫から奪われた水=神性は還元され、ふたつの力は再び統合されることになります。
その象徴として現れたのは、朝露でした。
命は儚く消えてしまうことから、朝露に喩えられます。そこから想像してみるとーーつまり、一度はプリティ・グールズに奪われたはずの「命の水」が、以前よりも確固たる神性の裏付け(=ひと雫の水をも愛でる心の持ち主=民のひとりひとりを想う王の器)を備えて、リナ姫のもとに戻ってきたのです。
実をいうとグリム童話にもそのまま『命の水(KHM97)』という話があって、典型的な末子成功譚なのですがーーそこで命の水は、王の不治の病を癒す彼岸の地に湧く水であり、一度は騙しとられてしまう王位継承権でもあります。「一度は騙しとられてしまう」と私が書くのは、もちろん報いが相応しい者のもとに戻ってくるからです。
コラボ先であるグラブルからアオイドスの言葉を借りるなら、破壊がプリティ・グールズ、再生が水の精霊三姉妹であり、それらは女王トキコ様の真の力の現れとしてリナ姫に継承されたーーと説明できるでしょう。
このあたりで、私の目からみた《シンデレラの魔法》について、7項目の箇条書きにしたものを提示してみます。私的なメモにすぎない(そのせいもあって文体を統一できませんでした)点は恐縮ですがーー
1) 《シンデレラの魔法》はみっつでひとつ。
第一に、本当の魔法。
第二に、ドレスアップの魔法。
第三に、ドレスアップを解く魔法(=12時過ぎの魔法)。
2) 《シンデレラの魔法》の第一は、《誓願の呪文》である。日常的な言葉でいうと「お願い」にあたる。
願いは往々にして自己言及であり、《○○できる私こそが私》《○○できない私は私ではない》という形で、己の可能性を表現する。
○○の中には否定的な表現を入れることもできるが、帰結するところは同じである。彼女は徹頭徹尾「私はアイドルになれるのか、なれないのか」しか問題にしていない。彼女の言い分は、以下のような形で表現することもできるだろう。
「この世界では『鷺沢文香がアイドルになる』という事態が起きるべくして起きる(文香はアイドルに要求される条件を自ずと満たすことができる)が、その事実は『私はその条件を満たせず、したがってアイドルになれない』という事態を排除できない」
誓願者にとっての「私」が不条理を意識していた場合、願いは《この世界では○○という事態が起きるべくして起きる》のような形をとることがある。
たとえば矢の雨が降ってもアレキサンダー大王は無傷だが、その裏で兵は死んでいたとする。両者をわけるものはなんなのか。特になにもない。不条理な現実を前に、ありもしない違いを無理やり言葉にして論理を成立させようとした時、少女は己が大王であるか一兵卒であるかを問わず、「世界」という概念に囚われる。比喩で言い換えるなら、世界とは舞踏会の広間であり、囚人の檻でもある。
志希は自身がギフテッドであることによって、既にこのつまずき(だからこそ、シンデレラのガラスの靴はいつも片方脱げてしまう)を経ていたので、文香にアドバイスすべき内容を持ち合わせていたーー手持ちの知識で状況に一石投じられるなら、それを出し惜しみする彼女でもない。
少女の目線に立つと、文香は世界と繋がっているが自分は繋がっていない/世界から切り離されているように見える。しかしそう見えるだけでは、事実そうであるとは限らない。あるいは、過剰に特別視された文香もまた世界から切り離されている。この疎外感は、少女/文香が「ありのままの自分」であることを妨げる。ふたりの少女は今、どちらも灰を被って舞踏会に行けないシンデレラである(リナ姫とユウがそうであったように)。
ただし、一度願いをかけて舞踏会を夢見たからには、いずれの少女にもシンデレラの魔法がかかる。
第一の魔法は、誓願者が直面しうるあらゆる可能性を、任意の聖と魔に分割する。
ここでいう魔は《追放されるもの/帰還するもの》、聖は《留守を預かるもの/戴冠するもの》の言い換えにすぎない。それ以上の意味内容を含まない器として、聖(=まさに私であるはずの私)と魔(=私ではないことにしたい私)は準備される。
たとえばSR[クラシカルハーモニー]水本ゆかりにおいて判明する願い○○の内容は【かわいい癒しをもたらす】であり、ユカリ・フェアヘイレンが悲しみに満ちた世界を滅ぼそうとする理由も《誰一人としてかわいい癒しを観測できないような世界は、滅ぶべくして滅ぶ》からだと考えられる。もちろん、フェアヘイレンがPに導かれてかわいい癒しをもたらす特訓後の姿になると、世界は彼女の願いと矛盾せず存続する条件を満たして、滅ぶべきではなくなる。
この場合、特訓前後で彼女のビジュアルイメージは正反対だが、その願いの内容は同一性を保っている。
3) 願いのほかに、聖と魔を分割しうる基準は存在しない。
聖魔の区別自体は善悪、優劣、貴賤などの価値観から独立しており、それらに依存しない。たとえば「週休8日を要求する」「お山に登りたい」「山形りんごを食べるんご」のような願いは、それらの価値観と本質的に結びついていない。
ただし、願いがそれらの価値観から影響を受けることはありうる(例としては有浦柑奈のラブ&ピースや、冴島清美の超☆風紀委員など)。
願いによってひとつのものがふたつにわけられない限り、続く段階における《魔除け》と《祝福》は効果を発揮できない。
4) 《シンデレラの魔法》の第二、ドレスアップは《魔除けの呪文》である。この魔法は、願いで分割されたふたつのうち、魔を一時的に追放する。
"one for all"であり「鬼は外」であるところのものである。
それは既に引用した第九『歓喜の歌』や「痛み止めのジュモン」と同じ性格のもので、日常的な言葉では「泣き虫はあっちいけ」「いたいのいたいのとんでけ」のような内容を含む。
また、それは時に「さよなら」や「いってきます」でもある。
分割されたふたつのものは、残された聖を核として、暫定的ではあるがひとつに再構成される。泣き虫が去れば笑う人々が残り、いたいのがなくなればへっちゃらになる。
『シンデレラ』の場合は《舞踏会に行けない私》が灰によって魔と認識され、退けられる。残った可能性は《舞踏会に行く私》という聖であり、この聖が表立つことによってドレスが現れる。
5) 《シンデレラの魔法》の第三、いわゆる12時過ぎの魔法は《祝福の呪文》としてひとつのサイクルを完成する。
"all for one"であり「福は内」であるところのものである。
日常的な言葉にあてはめると「ただいま」と「おかえり」にあたる。また、それは島村卯月のソロ曲『s(mile)ing』における「よろしく」でもある。
追放から帰還した魔(=灰かぶり)は、聖(=王子または彼の手の内にあるガラスの靴のかたわれ)によって、その占めるべき地位を承認される(=プロポーズされる)。
これによって、ふたつにわかれていたもの(灰かぶり/王子の妃)はひとつのものと証明される。しかしこのひとつは、もはや以前あったひとつではなく、神性(=○○できるできないを問わず、私は私)をそなえている。
捕捉的なことだが、王子と灰かぶりもまた《ふたつにわかたれたひとつのもの》であることが、結婚(=ひとつになること)によって説明される。
実際、ふたりは白鳥乙女とその夫たる英雄の特徴を、男女の区別にとらわれることなく、それぞれで分担して保存している。
たとえば王子は、伴侶を天の宮居に住まわせる白鳥乙女の特徴を備えつつ、階段に瀝青を塗ることで靴を片方盗みとったりもする(この時の彼は、天女の羽衣を盗んで檻に閉じ込める男そのものである)。
けれども、王子は計略を用いて、階段いちめんに、(べたべたした)チャンをぬらせておきましたので、灰かぶりが跳びおりたときに、おざしきぐつの左のほうが、べったりくっついて、そのまま置きざりになりました。
ーー KHM21 灰かぶり(金田鬼一訳)
灰かぶりの側では「白鳩や榛(ヘイゼル)と関わる存在が、生まれに相応しくない地位に甘んじていた」という点が白鳥乙女的であり、また簒奪者(=継母や義姉たち)に対する彼女の処断は、帰郷したオデュッセウスがアテナに励まされ、妻に求婚した者たちを皆殺しにするのと同じ英雄的要素である。
『灰かぶり』はこのようにして、ひとりの少女が白鳥乙女(囚われの姫)としてだけでなく英雄(戦乙女)としても振る舞うことを要請する魔法の物語でもありうる。
したがって少女は、ヒーローが挑んできたような試練に直面することを、もはや避けられないーーというよりは「辞さない」存在として描かれる。
シンデレラガールズでは、以上のような文脈において、異性装(男装・軍装)あるいはそれに準ずるアイドル衣装(クリスタルナイトパーティーやヴァルキュリア・オースなど)を採用することがある。
6) 願いは月や太陽のような象徴によって試練にかけられる。
たとえば太陽は台所や厩舎の掃除、穀物の整理などによって「よし、もう一度」と願えるかを試す。
月はタブー(後ろを振り向いてはならない、名前を知られてはならないなど)によって「願いが叶うことで世界は変わるか」を試す。
水もまた試練であり、鏡あるいは竜(蛇)として「それは実際のところ今もあなたの願いか」を試す。火や風や銀世界などについては以下略。
試練の繰り返しによって、願いは「夢は夢で終われない」かを問われる。
試練で頑張った証は「汚れ(せっちゃん談)」として可視化されることがあり、ヘラクレスにとっての「ヒュドラの毒が染みた肌着」であるとか、灰かぶりにとっての「灰」といったものは、その典型例である。
「灰」と「舞踏会のドレス」はコインの裏表のような関係にあり、それは白鳥処女説話における「檻」と「羽衣」のヴァリエーションと解釈しうる。
シンデレラガールズの楽曲では、この「檻であり羽衣であるもの(=灰でありドレスであるもの)」について、「ガラスの檻」や「プライドというワンピ」、"chemical show/magical show"、「今までとこれからをつないだメロディー」のような表現を用いてきた。
「灰とドレス」「檻と羽衣」という組み合わせは抽象化すると「試練と褒賞」「夢と現実」などと交換可能であり、試練と褒賞(夢と現実)が反転するタイミングでは死のイメージが浮かび上がる。
グリム童話には『旅あるきの二人の職人(KHM107)』のような話がある。また、(三十年戦争の頃の)脱走兵たちを主人公にした類話もあって、いずれにせよ彼らの試練と褒賞が反転する場面には絞首架が伴う。
絞首架もやはり「舞踏会の広間であり囚人の檻であるもの」すなわち世界の取る姿のひとつである。
これは遡れば「オーディン神は、己の目をえぐり木に吊られることでルーンの知識を得た」という北欧神話に行き着くようで、最近のアニメ漫画ゲームの中にもハングドマンのイメージとして命脈を保っているらしい。
「薔薇を蔵した鳥籠」や「薔薇のつるが伝うガゼボ」もまた「檻であり羽衣であるもの」の一例であり、配置された空間や薔薇の色、棘の有無などによって、無言のうちに何事かを示している(シンデレラガールズ内ではSR[語らいの明眸]三船美優+、『あいくるしい』のイメージジャケット、SR[純白の化学式]一ノ瀬志希、SSR[想いのアンサンブル]水本ゆかり+、SR[Secret Mirage]水本ゆかりなど)。
アニメ・シンデレラガールズのポジパやSSR[ローズフルール]櫻井桃華、[うるわしブロッサム]西園寺琴歌、[思ひ出になる今日へ]小早川紗枝は「魔法」などの章題を並べたバーネットの『秘密の花園』を引用しており、これも庭自体を鳥籠に見立てた作品として読むなら「檻であり羽衣であるもの」と同種のなにかである。その土地は、「薔薇の枝のベンチが折れて妻=母が世を去ること」「夫によって閉鎖され顧みられなくなること」「子らの手入れを受けて再び木々が息を吹き返すこと」の三態を経て、一度は断たれたかに見えた妻=母親の願いの行方を示そうとする。
ユカリ・フェアヘイレンの杖にみられる「蜘蛛の巣の中心に座す黒薔薇」の意匠にしても、この表現から派生したものだろう。
この杖は、ホメロスの叙事詩に登場する誓い/呪いの句「この杖から新芽が芽吹きでもしない限り(汝の思うようにはなるまい)」という不可能事の宣言を抱え込むと同時に、タンホイザー伝説における「もしもこの杖から芽が吹き花が咲いたならば(神は汝を憐れみ赦したもう)」という恩寵の予感を秘めている。身近な例でいえば、ステッキから花が飛び出す定番の手品も、おそらくはこれと同根のおめでたい表現である。
劇中で「呪い」とされたはずの黒薔薇もフェアヘイレンの思惑に絡めとられた結果、新たな意味を付与されている。今やゆかりの目に映る蜘蛛の糸/鳥籠の格子は五線譜、黒薔薇/白薔薇は音符である。
『大洪水』の記憶もようやく落ち着いた頃、
一匹の兎が、岩おうぎとゆらめくつりがね草との中に足を停め、蜘蛛の網を透かして、虹の橋にお祈りをあげた。
ーーランボオ『飾画』小林秀雄訳
実際の例をみて私が察したところによると、おそらく黒薔薇の野は、ゆかりがPと出会っていない世界/Pが持てる全てをゆかりに伝えきった世界である。対して白薔薇は、ゆかりが今現在《新たな一見をもたらすP》とともにあることを示すのだろう。
このような構図はかつて童話公演のクライマックスにも登場したことがあり、フレちゃん演じる気まぐれなアリス(現在)が白薔薇だとすれば、橘さん演じるアリス・パスト&フューチャー(過去および未来のアリス。アーサー王伝説も引用してある)が黒薔薇にあたる。
両者は、いずれも「喜びをつむぐ調べ」の中に登場・共存するのだが、そのうちの一部分だけを切り取って正確に把握できたとしても「彼女の全て」を理解することはできない。こうして水本ゆかりは、私の担当アイドルでありつつ私にとっての謎であり続ける。
つまるところ私は、自分ひとりでは理解が追い付かないアイドルを、理解が及ばないまま応援して、それでも彼女の願いの行き着く先を目撃したいのだ。
無能で無責任なPがめちゃくちゃなことを言っているだけのようでもあるが、いうなればこれもまた、私の選んだ試練なのである。
7) 試練に耐えうる願いでなくては、《シンデレラの魔法》を完成させることはできない。
ただし、少女が巡り会う願いはたったひとつではなく、試練で挫折したとしても新たな願いが少女の心を訪れる。
かつての叶わぬ願いもまた、少女の知る試練(理のひとつ)として、少女と新たな願いの前に再び現れる。
《試練》は願いを叶えるだけでなく、叶わぬ願いを弔うものでもある。
いわば《試練を受けること/自らも試練となること》によって正当な埋葬を受けた願いは、少女が新たな一見を得ることで浄化される。
その一例として、フェアヘイレンの呪いが赤ずきんよしのんによって解かれた証拠となる渚キャプテンの3Pシュートは、おそらく『蛙の王さま(KHM1)』に出てくる金の手鞠と無関係ではない。すなわち、いずれも泉や井戸の直上にさしかかった太陽が、不意に自分自身の姿を目撃してしまう事態を意味している(※デレマスが『蛙の王さま』を題材にした実例として、SSR[おとぎの国のものがたり]市原仁奈を挙げることができる。また、掌にすくった水面に太陽・月・星を捕まえるという発想も元をたどればこの類のものと思われ、SSR[偶像のフラグメント]二宮飛鳥がその典型例といえる。グラブルではアーカルムシリーズのザ・サンがそれについて述べていた)。
この事態をシンデレラガールズ風に言い換えるなら「自分と向き合って特訓」である。
フェアヘイレンの微妙な呪いとは、確かに重要なひとつの理(太陽も3Pシュートも、正しい軌道から逸れずにゴールを目指さなくてはならない)に囚われて、自分の気持ちと向き合うことができなくなる類いのものだったに違いない。もしもこの呪いが解ければ、同じところを何度巡ることになっても自分の気持ちを見失わないという自負心が再び目覚める。
このような手続(この場合は太陽と水の試練)を踏んで浄化された願いは、少女が新たな願いのためにさらなる試練を受ける際、助力者として少女の傍らに立ち、あるいはその背中を押す。
沈んだ太陽も朝にはまた昇り、月は欠けては満ち、洪水がひけば肥えた土が残される。氷雪は春に雪解け水となる。
それを反映して、どんな象徴と関わる試練も、無慈悲な檻であると同時に少女の日々を彩る羽衣(舞踏会のドレス)である。
試練は、少女と願いをともに鍛え、洗練し、よみがえらせる。
こうしていつか、少女に相応しい願い(=My only star)が揃うことになる。揃いつつあるそれら/ついに揃ったそれらは、シンデレラガールズの作中において星座にたとえられ、時には運命と呼ばれる。
シンデレラにおいては榛や鳩、魔法使いなどがこの助力者にあたり、いずれもシンデレラの分身と考えられる。
シンデレラはかつて樹木の女神であり、白鳥乙女であり、魔法使いだった。
少女がその主権者の座から放逐された事件の記憶ーー民を見守る権能を奪われ、翼をむしりとられて地に堕ち、果ては焚刑に処されてきたことは、簒奪者たる継母や義姉たちの末路に反映される。これはいわゆる同害報復ではない。継母たちもやはり、かつてのシンデレラなのである。
私がこれから物語る事件は巧妙にしくまれた殺人事件です
私はその事件で探偵です
また証人です
また被害者です
そのうえ犯人なのです
私は四人全部なのです
いったい私は何者でしょう
ーーセバスチアン・ジャプリゾ『シンデレラの罠』ドノエル社の広告文
実際、グリム童話における『灰かぶり』のヒロインは榛の枝で鳩の助力を得た魔法使いであり、自分に魔法をかけている。そこに助力者として魔法使いの老婆は登場しない。
その後、さらに書き換えられたシンデレラに登場する「シンデレラと和解する継母たち」のような場面も、ある意味ではいい加減なハッピーエンドではなく、同じグリム童話中の『手なしむすめ(KHM31)』さながら、キリスト教の倫理下にあってなおかつて親しんだ女神たちの尊厳を回復したいと願う人々の心の動きを織り込んだ結果と言えなくはない。
シラーが戯曲『オルレアンの少女』で果たそうとしたジャンヌ・ダルクの名誉回復や、バルザックが『恐怖時代の一挿話』で描いたルイ16世と処刑吏の関係なども、やはり同様の心理をその背景にしている。
「神父さま、私はある方の御魂を鎮めるために、死者のミサを執行していただきたいと思ってまいりました。……ある……ある高貴な方のためでございます。そのご遺骸はけっして聖なる土地に埋められることはないでしょう。……」
ーーバルザック『恐怖時代の一挿話』水野亮・訳
それはもはや偽善や未練というより、憧憬/憂愁のようなものである。かつて切り捨てたはずのものがもう一度戻ってくることを、人々はいつかまた望むことができる。
度重なる魔法のサイクルを越えて持ち越され、何度でもよみがえる願いの数々は、その不滅性ゆえ《本当の魔法》と呼ぶに相応しい。
さらに人は、語り継ぐことで、個の枠を越えて願いを共有する。
「誰もがシンデレラ」であり、「君の願いとリンクして」いる。
空想公演の理を【最期に願ったことが次の世界で叶う(コトカ・トウコ姉妹談)】、蒸機公演の理を【(水またはヨーコのエゴチップのように)形をとれば備蓄に耐え、(蒸気またはカラ=テのように)形を失えば動力源となる】と捉えるなら、願いと少女の関係はそこに示されている。
公演世界の理はいずれも、かつての少年少女たちが大人になるにあたって、一度は否定し粉砕しなければならなかった《シンデレラの魔法》の欠片とみなすことができるかもしれない。
そして、もしも全ての理の集合によって示される論理空間が《シンデレラの魔法》なのだとしたらーー全ての公演イベントはいずれも、砕けたガラスの欠片をもう一度拾い集め、《次代のシンデレラのための靴》に作りなおそうとする試みである。
私にすべての要素命題が与えられたと仮定する。そのとき、残された問題は単純にこうである。この要素命題から私はいかなる命題を構成しうるのか。
ーー『論理哲学論考』4.51
シンデレラのお話それ自体は、他力本願も自己研鑽も正当化/排斥しない。
童話ゆえに自他の境界があいまいな世界が舞台となっているため、いずれの解釈も、読み手がみたいものをみているにすぎない。先天的な才能と後天的な努力の違いを云々することも、同様に読み手の恣意である。
しかし、どんな解釈も自他の境界線を引き直しているとは言えて、それらは物語の中で描かれたひとつのものをふたつにわかつ魔法の似姿であると認識しうるだろう。その背景には願いがある(みたいものをみている!)。
臆面なく述べるなら、私の考察もその範疇を出ていない。
等しい価値をもつ理のひとつであって、誰かの一見を壊し、また壊される。
不条理な現実を前に、ありもしない違いを無理やり言葉にして論理を成立させようとした時、少女は己が大王であるか一兵卒であるかを問わず、「世界」という概念に囚われる。比喩で言い換えるなら、世界とは舞踏会の広間であり、囚人の檻でもある。
ーープリティグールズと《おてんば姫の戴冠》
こうして私の言葉は今、再び私自身の上に降りかかった。
……とはいえ、喜びのうちにダナイードが水を汲みあげ、シーシュポスが岩を押し上げるようなことも、ありえなくはないのである。
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相当長めの御託でしたが、お付き合いくださった方には、心からお疲れさまでしたと申し上げます。
正直、子供の頃の私はシンデレラそれ自体にはあんまり興味がなくて、同じグリム童話でも金のがちょうを抱えた行列が町中を練り歩く話とか、おかゆが際限なくわいてきて村ひとつ埋まってしまう話とか、バカバカしいものばかりを好んで読んでいたはずなのですが、なぜ今になってこんな真面目くさったようなものを書いてしまったのでしょうか。
ともあれ、私が一時的に追放した「魔」であるところの丁寧語も無事に戻ってきたことですし、ここからは健やかな気分でまとめに入りますね。
リナ姫やプリティ・グールズ、そして他にも多くのユニットがこの公演で体験した冒険は、《シンデレラの魔法》だったのではないかーーというのが、この考察の終着点です。
リナ姫こと本名・カマルーナリーナ姫はそのまま藤本里奈ではないですが、舞台の上では里奈ちゃんから留守を預かり、また公演が終わった時には里奈ちゃんに戴冠する聖性だったと思います。……いえ、この祝福と関わっていたのはリナ姫だけではありません。
たとえば、ナターリア姫やフェアヘイレンさんもそうですし、コトカ姫やスノゥメモリーも、ジーリオとアルバ(さよならアンドロメダ)もそうなのです。他にもここで列挙しきれないほどの祝福が、公演世界とアイドルの間で繰り返されました。
コラボ先のプリコネでいうとCMに出てくるアレですよ、アレ。
紡いだ絆は、育まれた愛情は、夢でも幻でもありません。
実際この公演で紡がれた絆は消えることなく、たとえば第二回MusicJamにおける里奈ちゃんとヘレンさんの会話にも受け継がれているように思われます。
この公演で、プリティ・グールズにもリナ姫のお手伝いができていたのだとすれば、それは「祝宴の輪の中にゆかりの姿もある」ことを意味していたに違いありません。
この推測は、「この御伽公演でゆかりは里奈ちゃん/カマルーナリーナ姫からなにを学べたというのか」を具体例つきで指摘することによって、多少なりとも説得力を増すことができるでしょう。
人それぞれでいろんな答えがあるかもしれませんが、私が担当Pとして今までゆかりの表現を追いかけてきた中で、最も「里奈ちゃん/カマルーナリーナ姫との共演なかりせば」と思ったシーンは、これです。
「神話においてはインドラの武器ヴァジュラであり、論理学においてはシェファーの棒記号に相当するもの」
以上の観察結果から、「ゆかりがハーモニッククラウドで『第九』や五月の空から受けた感動は、きっとプリティ・グールズのお仕事にも同じように存在しただろう」と、私は推定します。
「夢が夢で終わらない」その風景のなかに、主役ならずとも自分の担当アイドルの姿があることは、想像以上に胸を打つものです。
ゆかりPである私が体験した最近の例でいうと、ススメ!シンデレラロード赤西瑛梨華編/松山久美子編などはとても印象的なものでしたーーまさか「水彩のハルモニア」と「クラシカル・アンサンブル」が揃ってマツクミさんを祝う場面が公式になるなんて!
このような祝福の輪は、主役を変えて何度も廻ることでしょう。
絵空事ではなく幾度もその輪に身を投じてきた実感があればこそ、水本ゆかりはソロ曲『私色のプレリュード』をあのように歌うことができたと私は考えます。つまりーー
「世界中がオーケストラ」なのだと。
* * *
うーむ。しかしハーモニッククラウドもプリティ・グールズも2016年に登場したわけですから、私は彼女達が出したなぞなぞの答えを提出するために、6年もかけてしまったことになるようです。
今この台詞をみると「ちょっとは加減してくださいよ」と苦笑いしたくもなりますが、楽しい時間ではありました。
サンキュー志希にゃん。サンキューせっちゃん。そしてサンキューゆかり。……でもコレ、ちゃんと出口で合ってるのかい? なんか表札に「次なる迷宮の入り口へようこそ」って書いてある気がするんですけど!
例によって眉唾な長話になりましたが、ご読了ありがとうございました! みなさまにはみなさまの迷宮と、その活路がありますように。(了)